静かな精神の祝福――クリシュナムルティの連続講話』

J・クリシュナムルティ[著]/大野純一[訳]

1,680円(税込)

ISBN978-4-434-16773-7 C0011
静かな精神の祝福――クリシュナムルティの連続講話

1955年にオーハイで行われた8回にわたる連続講話

クリシュナムルティの教えのエッセンスがほぼ網羅されたこの一連の講話の中で、彼は私たちが意志の行使、努力、自己改善、等々へと条件づけられており、そのためにかえって自己中心性ひいては暴力性を強めていると指摘し、それらから自由になるための道を懇切丁寧に指し示している。
そして徹底した自己観察を通して騒がしい精神が自発的に働くのをやめ、静かな精神によって引き継がれることが急務だと強調している。なぜなら、それによって思いもよらなかった創造的な生き方が可能になるからである。


1955年8月6日から28日にかけてカリフォルニアのオーハイで行われた8回にわたる連続講話の中で、クリシュナムルティは人間精神の混乱、習慣、および思い込みに立ち向かい、これらのものが世界中の暴力と苦しみの根底に横たわっていると指摘している。
これらの講話は五十年以上前に行われたものであるが、その内容は今もなお新鮮で適切である。クリシュナムルティは、生産性の飛躍的向上と科学の進歩が幸福な未来を約束しているが、しかしそれを与えるに至っていない世界に言及している。彼は、教育や宗教を初めとする様々な分野での成果、あるいは個々人による自己改善の努力にもかかわらず、戦争、競争、羨望、領土権などをめぐる争いがますますエスカレートしていると指摘している。最後まで一貫して彼は、「自己」のすべての見かけの進歩は自由に行き着く進歩ではなく、錯覚の堂々巡りであるということをよく考えてみるよう聴衆に求めている。そして入念な自己観察を通して自分の精神を知ることが、自由への唯一の道であると彼は主張している。

クリシュナムルティ・アメリカ財団


精神は完全に条件づけられている──これは、もしあなたがそれについてよく考えてみれば、明らかな事実だとわかるでしょう。それは私の意見ではなく、一個の事実です。私たちは特定の社会に属しています。私たちは、一定の教義や伝統を備えた特定のイデオロギーに従って育てられました。そして、とてつもなく大きな影響力を持った文化や社会が絶えず精神を条件づけています。自由になるために精神がするいかなる動きもその条件づけの結果だとしたら、いかにしてそのような精神が自由になることができるのでしょう?
答えはたった一つしかありません。精神は、それがすっかり静まっている時にのみ自由であることができるのです。それは様々な問題や無数の衝動や葛藤を抱え、あるいは野心を抱いているかもしれませんが、もしも──自分を知ることにより、また受け入れたり非難したりせずにそれ自身を観察することにより、──精神がそれ自身の過程に無選択に気づけば、その時には、その気づきから驚くべき沈黙、いかなる種類の動きも伴わない精神の静寂が訪れます。その時にのみ精神は自由になるのです。なぜなら、それは何も望んでいないからです。それはもはや何も追求しておらず、もはや目標や理想など──どれも条件づけられた精神が投影したもの──を追い求めていないのです。で、もしもあなたが、いかなる自己欺瞞の余地もありえない程度までそのことを理解すれば、その時には、創造性と呼ばれているあのとてつもないものが生じる可能性があることを見出すでしょう。その時にのみ、精神は測り知れないもの、神、真理、等々──どう呼んでもかまいません。言葉はほとんど無意味なのです──と呼びうるものがあることに気づくことができるでしょう。
あなたは社会的に裕福かもしれません。無数の物──自動車、冷蔵庫、表面的な平和、等々──を所有しているかもしれません。が、測り知れないものが訪れないかぎり、あなたは常に悲しみに付きまとわれることでしょう。精神を条件づけから自由にすることが悲しみを終わらせるのです。(第1講話より)
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