コラム〜編集日記〜

第4回


このたび『平和への勇気──家庭から始まる平和への勇気』(ルイーズ・ダイヤモンド[著]/ニール・ドナルド・ウォルシュ[緒言]/高瀬千尋[訳])を刊行いたしましたので、お知らせいたします。


私たち人間は「経験から学ぶ」とよく言われ、事実そのとおりである時ももちろんあるのでしょうが、しかしこと戦争になるとそうでもないようです。これは「過去二千年間に五千回の戦争をした」という事実から見ても明らかです。暴力・流血・革命・戦争によって彩られた二十世紀の負の遺産を引き継ぐことを拒否し、二十一世紀を平和の世紀にすることを願っている人々が多々いることは確かですが、しかし昨年の同時多発テロや現在のイスラエル=パレスチナ紛争に象徴されるように、火種はいっこうに消えそうにありません。


日本でも戦争挑発的発言をする人々がいますが、注意すべきことは、実際に戦争が起こった時、彼らは若者たちをけしかけはしても、彼ら自身は決して戦争に行かないだろうということです。第二次大戦にしても、実態は「聖戦」とは名ばかりで、単にアジアなどの「物資」を強奪することが主目的の一つだったのであり、多くの若者や庶民はそのための戦いの「消耗品」に使われて無駄死にさせられたのです。そういうわけですから、私たちは戦争挑発的言論に操られないよう十分に気をつけなければならないと思います。


ところでルイーズ/ダイヤモンドは、本書の冒頭の方で次のように述べています。


私たちの社会は暴力の巷と化してしまいました。私たちはマスコミを通じて暴力を賞賛し、子供たちや市民を、問題解決に適した、あるいは「かっこいい」手段としてすら暴力を表現するテレビ番組や映画、テレビゲーム、本、ニュース放送、あるいは玩具に毎日のようにさらすことで、彼らを条件づけています。わが国は、先進世界のなかで最も高度な武装によって守られた市民をかかえ、国民一人当たりの刑務所の服役者の割合が(暴行罪で有罪を宣告された青少年の数のぞっとするような増加とともに)最も高く、死刑執行率も最も高く、なおかつこれらの「達成」を誇りに思っているのです。


私たちの社会は敵対的な社会と化してしまいました。私たちは、社会・政治の制度において強固な「われら」対「彼ら」というスタンスをとり、比喩的に(そして時には文字どおり)相手を支配し破滅させることを追い求める様々な党派へと自分たちを分裂させています。その「彼ら」が移民であろうと、妊娠中絶や環境問題について見解を異にする人たちであろうと、別の政党の党員であろうと、あるいは数限りない仕方で私たちと異なる人々であろうと、好戦的なスタンスが私たちの社会的行動規範となってしまいました。このスタンスは、明らかに野蛮なまでに不作法になってしまった私たち市民の談話のなかに見て取れます──家族も、学校も、街中も、さらには最も高潔であるべき政治制度も、粗野な言動、悪口雑言、無礼で満ちているのです。


私たちが身につけた敵対的な態度は、生き方の一つとしての論争へと私たちを仕向けます。私たちは、一種のコミュニケーションかつエンターテイメントとして、討論を崇拝しているのです。私たちは、延々と討論し続けられる能力を自慢し、対決主義的で訴訟好きな裁判所のシステムへの過度の信頼を通じてこのプロセスを制度化し、合法化しています。私たちは自分自身とすら論争し、自分に価値があるかどうか、愛されるにふさわしいかどうか、あるいは自分の身体のイメージの良し悪しについてあれこれと悩み、ありのままの自分自身と戦いを繰り広げているのです。


私たちの社会は、多種多様な人種・民族グループ間の一度も癒されたことのない歴史的不和や、ますますつのりゆく「持てる者」と「持たざる者」間の経済的格差を伴う、分裂した社会と化してしまいました。こうした分裂の根底には、あるグループのほうが他のグループよりも優れていると断定することによって社会組織を引き裂こうとする、諸々の信念システムが横たわっています。それらは私たちの制度の実に多くにきわめて深く埋め込まれているので、国家としての私たちの道徳的高潔さを徐々に蝕み、人間としての私たちの能力を低下させる、構造的暴力を煽るのです。


最後に、私たちの社会は貪欲な社会と化してしまいました。ショッピング──物品の蓄積──や投資──金銭の蓄積──が、全国民共通の娯楽になりました。物質的欲求を満たそうとやっきになるあまり、私たちは、人生にはより高い意味があるのだということを忘れてしまいました。私たちは、自分が安楽に暮らすことと、世界のなかの経済的に恵まれない場所に暮らしつつ、私たちがこれほどむやみに欲しがる品物を作り続けている人々の生活・労働状態との間には密接な関係があるということを無視しています。購入し所有することのあわただしさのなかで、私たちの「持つこと」が地球の限りある、かつ減りつつある天然資源の供給管に取り付けた取出し口を、私たちは都合よく見過ごし、傲慢にも、私たちはそれらがもっぱら自分たちの富裕と快楽のために存在していると思い込んでいるのです。これと同じ態度が、私たちの最も弱い仲間たち──貧乏人、老人、移民、ホームレス、身体障害者、病人──の苦しみを見ても見ぬふりをするよう私たちを仕向け、私たちにおそらく「私には私の悩みがあるんだ。彼ら自身も自分たちで何とかする以外、他に仕方がないではないか」などと考えさせ、ほとんどなんの手助けしもしないようにさせるのです。


このような状態は、言うまでもなく恵み深いものではありません。要するに、それは、暴力紛争が起こっている世界中の様々な場所で見られるパターンのいくつかに、ショッキングなほど似ているのです。私は、アメリカ合衆国はいずれ必ず無秩序や戦争に陥るだろうと示唆しているのではありません。にもかかわらず、これらの状態がはびこるのを放っておくことで、私たちは、ボスニアやソマリアやルワンダといった場所を荒廃させたような破壊的な力にさらされやすくなっているのです。


私たちの社会での生活は戦場のようになってしまい、その戦争のなかで私たちは今まで常に直感的に知っていたことを忘れてしまったのです──もっと良い道が本当にあるということ、一緒に生きるためのより良い道、お互いに大切にし合うためのより良い道、自らの神聖な潜在能力を尊重するためのより良い道、生きる力に仕えるためのより良い道、自らの人生の枠組みのなかに平和を組み込むためのより良い道があるということを。


この本は、そのより良い道についてじっくり考えてみようという試みです。それは、行動する〈平和のスピリット〉を発見するための、私たちの集合的な心と魂の旅です。ある人にとっては、これはとてつもなく大きな、気の遠くなるような課題に思えるかもしれません。働いている力があまりにも大きく見え、個人としての私たちはあまりにもちっぽけに感じられるのです。たった一人の人間が、深く埋め込まれたこれらの社会的パターンに対していったい何ができるというのだろう?


私は、この無力感をよく知っています。また、このことが現状を維持させるのだということも知っています。私たちの誰も、社会の変革ないし変容という重荷をたった一人で背負う必要はありません。私たち一人一人が〈平和のスピリット〉を自分の人生のなかに見出し、それが私たち自身の環境のなかで開花するように誘い、水に投げ込まれた小石から波紋が広がるように、それが家族や友人、同僚、そして近所の人々へと伝わるようにすることができるのです。私たち一人一人が、自分のために「より良い道」を見つけ、そうすることで、壊れてしまった世界の癒しに参加することができるのです。


この惑星は、重大な岐路、人類史における決定的に重大な選択の時点──今ここで私たちがする選択が種としての私たちの存続を決めかねない、そういう時点──に差しかかっていると私は信じます。これらの選択は、私たちがこの惑星上で一つの生命の家族でありながら、にもかかわらず多種多様な違いを持っているという、見せかけのパラドックスにどのように対処するかに関わってます。


私たちは、地球のかけがえのない、脆い相互依存の網のなかでその「一体性」と「多様性」の両者を尊重する道を、なんとしてでも見つけ出さなくてはなりません。これには大きな勇気が必要とされるでしょう。なぜなら、それは私たちの動機、振る舞い方、慣習や制度を徹底的に見直すことを意味するからです。私は信じています。私は知っています。私たちがお互いにより良く接し、個人、集団、地球レベルでより良い関係を築くための道を見つけ出せるよう、〈平和のスピリット〉がこれらの選択を助けてくれるということを。


本書を日常生活において平和を模索する際の道案内として参考にしていただくよう願っております。
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