コラム〜編集日記〜

第12回


今年も世界のあちこちで次々と悲惨な事件が起こっていますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか? 中高年男性は景気低迷の中で元気がなく、未来を担ってくれるはずの若者の一部もテレビゲームのやり過ぎで頭がおかしくなっているらしいですし、かなりの数の若者が「ひきこもり」になっている・・・。筆者のいる借家の隣のお宅の息子さんも、この4月に中学に入ってからずっとひきこもっているらしく、時々先生が様子を見に来ているようです。確かに今の日本社会や世界情勢を見ていると、逃げ出したくなるのもわかるような気がします。


最近、「サングラハ」の岡野さんからケン・ウィルバー著『万物の理論』を献本いただきました。「ビジネス・政治・科学からスピリチュアリティまで」という副題が示すように、彼がこれまであまり触れてこなかった政治経済の領域をカバーして議論を展開しており、いろいろ参考になることが書かれています。その中の「世界全体に対する統合的なヴィジョン」という項で、もし世界の人口を100人しかいない村に縮小して考えてみると、次のような数字が得られるというのです。


57人がアジア人
21人がヨーロッパ人
14人が南北アメリカ人
8人がアフリカ人
30人が白人
70人が白人以外
6人が世界の富の59パーセントを所有しており
その6人はすべて合衆国出身である
80人は標準以下の家に住んでいる
70人は字が読めない
50人は栄養不良に苦しめられている
1人が大学教育を受けている
1人がコンピュータを持っている


これらの数字から実に多くのことが読み取れるのではないでしょうか? 6人の金持ちが、それぞれ世界の富の約10%ずつを所有している! すでにいろな形で言われてきたことですが、人類のうちのほんの一握りの金持ちたちが自分たちの豊を守るために、必要とあらば武器にも訴えるなどしてやっきになっているのであり、わが日本の金持ちたちもその富裕な少数のアメリカ人たちの仲間入りをしようとしてきたのです。


現在、世界はアメリカの一国支配の下に置かれつつあり、日本は敗戦以来アメリカに半ば従属してきましたので、世界が住みやすい場所になるためには、まずアメリカ人の価値観が変わることが必須条件であり、そうするとその余波が日本にも及ぶでしょう。そのためには、そもそもアメリカ人の行動の根底にはどのような基本的考え方があるのか、振り返ってみる必要があるでしょう。最近、その参考になるような本を入手しましたので、ちょっとご紹介させていただきます。R.N.ベラーというアメリカの宗教社会学者が書いた『宗教と社会科学のあいだ』(未来社、1974)という本です。ベラー教授はウィルバーも言及している優れた学者で、この本はとても参考になりました。特に「悪とアメリカの精神(エートス)」という章は参考になったというか、とても面白い内容でした。これは、ベトナム戦争(1954-73)中の1970年に、ライト協会主催の「悪の正当化」に関する会議で発表されたエッセイです。その冒頭に次のような言葉が引用されています。


……褐色のムーア人も、黒いニグロも、浅黒いリビア人も、灰色のインド人も、オリーブ色のアメリカ人も、白いヨーロッパ人と共に、ひとりの偉大な羊飼いの下にあるひと群れの羊たるべきであり、この死ぬべき運命が偉大なる生命に飲みこまれてしまうまで、偉大な羊飼いがひとりであり父がひとりであるようにわれわれはすべてひとつであり……肌の色による区別も、国家による区別も、言語、性、身分による区別もなく、みな、ひとりなる羊飼いの下にひとつであり、永遠にひとつとして祝福されるだろう。


これは、1614年にサミュエル・バーチェスというイギリス人牧師が、英国が意気揚々として帝国主義的植民地拡張に乗り出そうとしていた時、宗教的に知覚されるものとしての人類の統一のビジョンとして描き出したものです。次に、この「包摂」の精神の対極にある「排斥」の精神を示すものとして、次のような19歳のベトナム派遣歩兵の言葉が引用されています。


世界の背後にひっこんでいる長髪のいかがわしい野郎共は、ぶち殺してしまうべきだ。戦争反対のデモをする奴は、ここの土人のように、並べて殺してしまうがいい。


人間の根本的統一の主張も、人々の集団はみな欠陥を具えており、当然極端な攻撃を免れないという主張も、共にアメリカの伝統の一部であるとして、ベラー教授は次のように言います。「キリスト教徒であることは人間の一体性への深い参与を意味し、他方そのことは、信条、慣習、肌色において彼らと徹底的に異なるいかなる人間をも奴隷化してもよいというキリスト教徒ヨーロッパ人の権利を意味していた。包摂と排斥の弁証法はすべてに人々の間に見いだされる。しかし、アメリカにおけるほど、かくも苛酷で残忍な排斥が人間の普遍的概念と併存しているところは他にない。」


さらにベラー教授は、アメリカの精神における悪徳の意味を理解する上で、アメリカにおける国家共同体意識の発展の基礎となった「マサチューセッツ湾植民地」を見てみる必要があると言います。「当初からわれわれの社会あるいはその重要な部分は、平等な人々の自由意志に基づく契約に基礎づけられ、民主的に統治されてきた。しかし、これがいかなる種類の民主的、自主的社会であったかを想起することは重要である。初期のマサチューセッツにおいては、教会員であることが投票権を行使する前提条件となっていた。これは聖者の共同体、選ばれた者の集まりであった。そして、新世界にやってきた選ばれた者達と罪の中に沈み込み旧世界に残った人々との間に鋭い二分法があっただけでなく、新世界の中でもまた、選ばれた人々と堕落した人々との間にはっきりした二分法が存在した。神に見捨てられ道徳的に不正で宗教的に正統的でない人々は、共同体における完全な成員資格から締め出され、のみならず、選ばれた人々の責任ある行動を保証していたピューリタン的プロテスタントの性格構造における内的抑圧と、共同体が期待した通りに振舞わない非同調主義者への外的抑圧の間には、密接な関係が存在した。さらに最初から、民主的社会秩序と個人的、社会的抑圧との間には密接な関係が存在し、そうした抑圧が、救われる者と地獄に落とされる者との間に宗教的であるばかりでなく、社会的にもとりわけ鋭い差別をもたらした。」


アメリカが建国されつつあった共和政初期には、アメリカを新しいイスラエルするイメージは強く、アメリカは、ヨーロッパの古い人間と対立する新しい人間(New Man)を生み出すものと考えられていたようです。しかし社会における完全な成員資格が実際上すべての人々に開かれていたわけではなく、一定レベルの道徳的行動と堅実な経済的地位が本質的条件とされていたのです。これは、質素な生活と勤勉な労働を営むいかなる人にも原則的には開かれていたにもかかわらず、インディアンとニグロは、生来的に性質上の欠陥があるとして徹底的に排除され、彼らが世に立つに必要な手段すべてが組織的に剥奪されたのです。


19世紀になると、非プロテスタントと非英語国民が大規模に移民として押し寄せ、さらにその後カトリックやユダヤ教徒がやって来ました。これに対応して文化的多元主義的共同体への変容もありえたし、それを提唱した少数のアメリカ人もいたのですが、主流はまったく違い、「同化」が要求され、「外国系アメリカ人」の終焉が求められたのです。「100パーセントのアメリカ化が目的で、すべては坩堝(るつぼ)のイメージに集約されていた」のです。そしてこのイメージは、ある無気味な出来事にまるで絵のように典型的な姿を取って現われました。


その出来事とは、1920年代の初期にヘンリー・フォードが主催した祭りであり、巨大な鍋が彼の工場の門前に建てられた。この鍋の中に、故郷の国々の歌を歌い踊りながら、派手に着飾った移住者達が踊り込む、鍋のもう一方の口からは、当時の標準的衣装を一様に身に纏った一列のアメリカ人の流れが国歌を歌いながら現われる。すべての移住者が最終的にアメリカ化の坩堝の中から登場した時に、タレンテラとポルカの音はやみ、ただひとつ高まりゆく国歌の調べだけが聞こえてきた。このおびただしい変身を創り出す巨大な圧力が、結局はほとんど強制的回心に等しいと考えずにはいられない。


実際には、文字通りの坩堝は発展せず、異集団間の大規模な通婚も見られませんでしたが、しかし移民の多くは、結局は、ほぼ自由意志によって「畜生神−成功」崇拝(ウイリアム・ジェームズの言葉)へと回心したのです。かくして、アメリカ人は成功を追い求めてほとんど狂気じみた向上的前進を果てしなくし続けるようになったのです。


第二次世界大戦中の1941年、アメリカ文明の最も手厳しい批判者の一人、ヘンリー・ミラーは、その『冷房装置の悪夢』(新潮社、1967)中で次のように述べています。


われわれは、われわれ自身を、解放された人民であると考えることに慣れている。われわれは民主的であり、自由を愛好し、偏見や憎悪にとらわれないという。この国は坩堝であり、偉大なる人間の実験の場であるという。いかにも美しい、高貴な、理想主義的感懐に満ちた言葉である。ところが現実は、われわれは野卑な、出しゃばりの烏合の衆であり、扇動政治家(デマゴーグ)、新聞人、宗教的山師、宣伝屋等々の連中に他愛もなく動かされる感情の持主なのである。これをしも自由人の社会だなどと称するなら、神への冒涜だ。この狂った活動が進歩と文明化を代表するものだなどという偏執狂的妄想のもとに、この地上からふてぶてしくも劫掠したあり余る剥奪品の上に、何をわれわれは世界に提供しなければならぬというのか。機会(チャンス)の国は、無意味な汗と苦闘の国になり果ててしまった。われわれの営々たる努力の目標は、とうの昔に忘れ去られている。いまは、もはやわれわれは、虐げられている者、家なき者を救いたいとも思っていない。この広大な、人間の希薄な土地には、かつてのわれわれの祖先のように、いまも避難の場所を求めている人々を迎える余裕すら全くない。いま何百万という男や女は、モルモットのごとく強制された無為の一生を宣告されて、いまも救いを求めているのである。……しかるに世界は、空前ともいうべきほどの必死の思いで、われわれに期待をかけている。いったい民主主義精神は、どこへ行ったのか? 指導者たちは何をしているのか?


ベラー教授によれば、アメリカの排斥と抑圧の歴史のあらゆる段階で人間を区別しようとする傾向があり、最終的に「畜生神−成功」がその座について以来、その区別は成功者と失敗者の間に立てられたのです。さらに、この区別を「善」と「悪」の区別と同一化しようとする強い傾向とが存在していたのです。そしてこの善悪の区別から、「善は善ゆえに悪ではありえない」という観念が生まれ、その結果、「良きものは良き目的だけを目論みうるのだから、悪と見なされる集団に対してとられるあらゆる行為が正当化されてくる。こうしてアメリカにおいては、黒人の奴隷化も、インディアンの大量殺戮も、自由な黒人へのリンチも、日本への原爆も、ベトナムでの大虐殺も、みなそれぞれ弁護者もってきた。」悪を投影し、悪のレッテルを貼られた集団に攻撃を加えるというのが、アメリカ人の根深い性向となっているのです。かつての「赤狩り」も最近のイラクや北朝鮮などへの敵視政策も、こうした性向を反映していると言いうるでしょう(ちなみに、自分のことを正しいと思い込むことは狂気の始まりだ、と誰かがどこかで言っていたと記憶しています)。


ベラー教授は、最後に、以上のような背景から出てくるアメリカ人の根深い破壊性を克服するためには、以下のような特性を備えた「新しい人間(New Man)」が出てくる必要があるとしています。


この新しい人間は、われわれが通常なし得る以上にうまく、自らの暗い側面を受け容れることができるだろう。彼は自己自身のイド衝動、性的な事柄、依存性、反抗性を、それらに屈服することなく、またそれらを否定することなく受け容れて、しかもそれらを統合された創造的人格の中で結び合わせることができるだろう。彼は、彼自身の自己評価において「百合のように純白」である必要はなく、それ故他人の黒い皮膚の象徴的意味に脅えることもないだろう。彼は同胞の黒さに心奪われ怯えるよりは、その黒さを自己の人間性を豊かにし拡張させるものとして享受するだろう。新しい人間は依然としてアメリカ人であり、プロテスタント倫理の強い影響の下に置かれている。しかし彼は、その達成が人間の尊厳の唯一の基盤ではないことを理解しているし、彼自身においても、また他人においてはなおさら、成功への闘争とは直接的結びつきをもたない多くの事柄を尊重するだろう。彼の広く包括的な人間性の概念は、アメリカを国際的な文化的多元主義のモデルとすることができるような、真正な文化的多元主義を受け容れることを可能にするだろう。新しい人間の大多数は、何らかの集団を永久的劣等の地位に運命づけるような社会を受け容れることをできない。他のいかなる目標を社会がもとうとも、先決問題は、あらゆる集団に対し、それ以下には落ち込まない平面を保証することである。目標達成についての根本的不案や失敗への深い恐れは、不安定な欠乏状態にある社会においては理解され得ても、物質的に豊富な社会では容認され難い。いうまでもなく、国際的な場において新しい人間は、アメリカ人が近来行なってきたように、国際的裁判官や世界の警察として行為しようとはしないだろう。彼は世界における最も深い問題が、世界のすべての人々に根本的安全と尊厳を保証することである点を認識するだろう。


われわれは、そうした新しい人間が完全であるとも攻撃性への完全な統御を保持しているとも期待することはできないが、そうした新しい人間や彼の創り出す社会が以前のアメリカと比較して、無力な外集団に対して加えられる残忍な攻撃を防止する遥かに堅固な抑制機構をもっているだろうことは期待できそうに思われる。


30数年前に期待をこめて書かれたこの「新しい人間」出現についてのベラー教授の予見を、現在のアメリカ、ひいては世界の現状を見つめていく際の参考にしていだだければと思います。
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