コラム〜編集日記〜

第31回


読者の皆様はいかがお過ごしでしょうか? 前回はクリシュナムルティの『生と出会う』が4月中旬に刊行されたことをお知らせしましたが、あっという間に夏になってしまいました。この間、いくつかの本を並行して刊行準備してきたのですが、どれも遅れ気味だったためお知らせが滞っていたのです。


幸いにも『恐怖を超えて:トルテックの自由と歓喜へのガイド--ドン・ミゲル・ルイスの教え』を今月末にお届けすることができそうです。これは著者のメアリー・キャロル・ネルソン女史がミゲル・ルイスの口述したものを記録し、コメントを加えて編集したものです。翻訳は、これまでにミゲルの『四つの約束:コンパニオン・ブック』 『祈り:創造主との交わり』 『パラダイス・リゲイン:トルテックの知恵の書』だけでなく、クリシュナムルティの本も3册訳してくれた大野龍一氏が引き受けてくださり、大変興味深いが、しかしなかなか入り組んだ内容の話を迅速かつ正確に、しかも原書のわかりにくい箇所を極力わかりやすくするよう工夫をして訳してくれました。


  • これは、ミゲル・ルイスの教えの背景をなしている、古代メキシコの秘教トルテックの秘密を大胆に開示したもので、主な内容は次のとおりです。
  • ミゲルが透視したテオティワカン遺跡の秘密と知られざる古代史
  • 「新しい太陽」が生み出すアクエリアス時代の人間進化
  • ケツァルコアトル=再生のための死のイニシエーション
  • 生まれ変わりが意味するもの
  • 「地獄の夢」を「天国の夢」に変える方法
  • ミゲルが見た仏陀とイエス
  • ミゲルの妻ガヤの数奇な物語
  • 予言と激動の時代へのメッセージ


この本については「訳者あとがき」で周到な解説がなされているので、ぜひお読みいただきたいと思います。本書の特徴について、訳者は次のように述べています。「ミリオンセラーとなった The Four Agreements(邦訳『四つの約束』)以下の、これまで邦訳のある一連の書では、彼は必要な範囲内でしかトルテックについては語っていない。本書ではそのバックグラウンドについて詳しく述べられ、また、彼のナワールとしてのシャーマニックなヴィジョンが隠すことなく開示されている。テオティワカン遺跡のもつ意味についての秘教的な解説にもかなりの紙数が割かれている。後で触れるように、それらには物議をかもしそうな話が相当含まれており、英語版のアマゾンの読者レビューを見ても、多くの読者は他の著作を読んでからこれを読んだようだが、ショックを受けた人が少なくないと見え、中には罵倒めいたことを書いている人までいる。他方、「Four Agreements を超える!」といった絶賛レビューもあって、評価は大きく二分されているようである。」


この一文からでも、本書がこれまで小社で刊行してきたルイス自身の本とはいかに異質かを伺い知ることができます。しかも全体で(「訳者あとがき」を除いて)300頁余りもあり、十分読みごたえがあります。とりわけ、ミゲルの妻ガヤの非常に興味深い物語まであり、まさに盛り沢山(過ぎる)と言ってもよい内容になっています。というわけで、これまでに彼の本を読んで興味をお持ちの方にはぜひ読んでいただきたいと思っています。


◇ ◇ ◇


ここで恐縮ですが、急に話題を私事にまつわることに変えさせていただきます。編者は毎年7月13日に、浅草の仲見世の中程にある伝法院通りを通り抜け、しばらく歩いたところにある日輪寺という時宗(一遍さんが創始した)のお寺にお墓参りに行きます。この日に檀徒が一同に会して、まとめてお経をあげてもらい、新しいお札(ふだ)をもらい、それぞれの先祖の墓に水をかけて洗い、お線香や花を供えるのです。昔はお坊さんが檀徒の家を一軒一軒まわっていたのですが、今は人手不足で大変なので、まとめてお参りをするようになったのです。ちなみに、大野家の墓には祖父祖母と父母が眠っています。 


この途中の伝法院通りに「地球堂」という古書店があり、編者は毎年この店に立ち寄り、記念として何か一册買い求めるようにしています。今年は『精神の政治学』という本を入手しました。昭和14年(1939年)に創元社から出版されたものです。著者はポール・ヴァレリー(1871-1945年)で、フランスの作家、詩人、小説家、評論家。多岐に渡る旺盛な著作活動によってフランスを代表する知性と称された人です。その『テスト氏』を小林秀雄が訳したことはよく知られています。1945年に死去した時、ドゴールの命により戦後フランス第一号の国葬をもって遇せられています。そして訳者は吉田健一で、かの吉田茂首相の御子息(故人)で、ポーの諸作品やヘンリー・ミラーの著作などの邦訳紹介者としても知られています。


この本には「精神の政治学」「知性に就いて」「地中海の感興」という1932-35年にかけて行われた講演と、「レオナルドと哲學者たち」という、レオ・フェレロという夭折した作家の最初の著作の序文として書かれたダ・ヴィンチに関する論考が納められています。編者はずっと以前、この本を古書店で見かけたことがあるのですが、なにやら難しそうなので素通りしたように記憶しています。それが今度、何気なく立ち読みしていたら、ちょっと気になる箇所があったので持ち帰ったのです。それは、「知性について」という1935年の講演中の次の箇所です(新仮名遣いに改め)。


今から四十年程前(1895年頃、つまりヴァレリーが24歳の頃;クリシュナムルティが生まれた頃--編者)に、私は自由な土地の消失、即ち土地の、組織された諸国家による完全な分割、誰にも属さない土地の消滅、を世界に於ける画期的な現象として指摘した。ただし、この政治的な現象と並行して、我々は自由な時間の消失をも認めなければならない。即ち、自由な時間や空間はもはや人の記憶にしか残っていないのである。私の言う自由な時間とは、普通人が言う意味においての閑暇のことではない。外見的な閑暇はなお存在し、それは種々の法律や、時間を労働によって克服する必要を省略するのが目的である機械的な諸手段の完成によって、自己を擁護し、自己を一般化さえしてゆくのである。一例として、労働時間は法律によって割当てられ、計算せられている。


ただし私が言いたいのは、時間的な閑暇とは全く別である内的な閑暇は、失われつつあるということなのだ。そして我々が失いつつあるこの、存在の深奥の箇所における本質的な平和状態、この貴重な不在とも言うべきものによって、生命の最も微妙な諸要素が相互を刷新し、振作(=作興:高揚、喚起、鼓舞--編者)するのであり、その間において存在は何らかの形で、自己を過去とか未来とかから解放し、現在の意識や、未遂の義務や、待ち構えている予想から離脱するのである。……そこには何らの気遣いもなく、明日もなく、内的な圧迫もない。そしてそこにあるのは、一種の不在における安息、精神がその本来の自由を取り戻す快い休暇である。その時、精神は精神自身についてしか考えない。そして実際的な認識に対しての義務を解かれ、周囲の事物のために思慮することを免ぜられる。精神が結晶体の如く純粋な形象を産するのはその時である。


ところが、現代における我々の生活の刻薄さや、切迫や、慌ただしさは、この貴重な安息を撹乱し、あるいは破壊しつつある。諸君自身の内、また諸君の周囲を見たまえ! 不眠症の進行は著しいものであって、他のあらゆる発達と完全に歩調を合わせている。世界には、もはや人工的な睡眠しか可能でない者がなんと多いことだろう、彼らは虚無の状態に陥るために有機化学工業の精妙な援助を必要とするのである! 他日あるいは、多少とも楽器的な分子の新結合が、我々に、今日我々の生活において自然にはますます得難くなっている瞑想の状態を供給してくれるかも知れない。何時か、薬局方が我々に深淵を与えるだろう。ただし現在では、疲労と精神的な混乱とに耐えきれない我々は、術(すべ)なく、遥かタヒチの島の素朴と懶惰との楽天地に、我々がかつて経験したことのない、緩慢な、無定形な生活に憧憬を感じるのである。原始的な人間は、細かに分かたれた時間の必要を知らないのである。


実は、この箇所を読んだ時、拙訳『スピリチュアル・レボリューション』に引用されていた、神話学者ジョセフ・キャンベルの次の言葉を思い出したのです。


これは、当今の誰にとっても絶対的な必要事です。一部屋あるいは一日のうちの一時間ほどを確保して、その中では、あるいはその間は今朝の新聞に何が書かれていたかも、誰々が自分の友だちであるかも、自分が誰にどんな世話になっているかも忘れるようにしなければなりません……これは、あなたが単にありのままの、あるいはあるかもしれない自分を体験し、さらけ出すことができる場です。これは、創造的孵化の場です。初めは、そこでは何も起こらないように思われるかもしれません。が、もしあなたが聖なる場所を持ち、それを用いれば、何かが結局は起こるでしょう。


クリシュナムルティの次の言葉も、ヴァレリーとキャンベルのそれらに関連していると思われます。


その昔、本というものがなかった時代、教師、グル、弟子といったものがいなかった頃には、本など読んだことのない独創的な発見者たちがいたにちがいない。『バガヴァッド・ギータ』も『バイブル』も他のいかなる本もなかったので、彼らは自分の力で見出さなければなかったのである。どうやってそれに着手したのだろう? 明らかに彼らは訓戒に訴えることも、誰か他人の権威を引き合いに出すこともなかった。彼らは自分自身で真理を探求し、それを自分自身の心の中の神聖な場所に見出したのである。われわれもまた、自分自身の心の中の神聖な場所に真理を見出すことができるのだ。


現代の賢人たちは、相呼応するかのように、私たちの精神(心)の内奥に「創造的孵化の場」あるいは「解放区」を見い出すことがいかに必要かに言及しています。しかしながら、ヴァレリーによれば、現代においては、そうした営みが決定的に妨害されているのです。とりわけ「教育」によって。ただし、彼は「教育」とか「訓育」という言葉の意味は狭義に解されてはならないと言います。それは、一般には親や教師による児童や青年の組織的な養育のことですが、しかし私たちの生活全体が一種の教育だと言うのです。それは本質的に乱雑な教育で、生活そのものから受ける種々の印象や、生活から獲得した良いこと悪いことの総和から成っているのです。例えば、街頭の生活とか、人の話とか、見世物、付き合い、世間一般の風潮、相次ぐ流行、様々な犯罪事件(例:大阪で、兄弟喧嘩の末、弟が兄を殺し、ノコギリで首を切断した)といったすべてのものが、好むと好まざるとに関わらず、若者たちの精神に絶えず強力に作用しているのです。


以上を踏まえた上で、ヴァレリーはいわゆる学校教育に限定して、話を進めています。現代の教育を俯瞰した時に何が見えてくるか、それについて彼は次のように述べています(文中の「 」でくくった言葉は、訳書中では太ゴチで強調されている言葉)。


……私は、世界の大国の中の幾つかにおいては、数年来その青少年の全部が、本質的に政治的な性格を有する教育を受けているということを、諸君に指摘したい。それらの国々における学校教育の課程や紀律は、「政治第一」ということを原則としているのである。そしてその課程や紀律は青少年の精神を均一に形成するのが目的であって、それらを貫くものは、文化に対する配慮ではなく、非常に明確な政治的、および社会的な意図なのである。故に、学校生活に関する以上はいかなる小さなことも、そこで得る習慣も、遊戯も、読書に提供せられる書物も、全ては学生をある確定した社会組織と、同様に確定した国家的、社会的な企画に適応した人間となるようにするための、手段となっている。そして精神の自由は国家の観念に断然従属せしめられ、その観念は、国によって趣意は異なるにしても、それが画一性を要求するという点においては、何れも全く同じであると言える。「国家がその国家の国民を製造するのである。」


故にわが国の青年は早晩、彼らとは反対に(フランスの青年が民主主義者になるように教育されるとすれば、その反対にナチスドイツの青年は全体主義者に、中国の青年は共産主義者になるように--編者)、均一に教育され、訓練された、言わば「国家化した」青年の集団を相手とすることとなるだろう。即ち、この種類の近代的な国家は、その教育制度においていかなる不一致をも許さず、教育は幼少の頃から始まって、何時かはそれから脱し得るということがなく、教程終了後は軍隊的な組織によって国民の訓練が続けられ、完成されるのである。


ここまで来れば「精神の政治学」というタイトルが示唆していることが明確になったと思います。即ち、精神の自由が政治によって完全に蹂躙されているということです。このような内容の本を、第二次世界大戦が始まった1939年に、吉田茂という政治家の息子がせっせと訳していたというのは興味深いことです。紹介ついでに、ヴァレリーが現代という時代をどう見ていたかを示す以下の箇所を最後に引用しておきます。


諸君は現代がいかに「饒舌な」時代であるかを御存知のことと思うが、あるいはそれについてまだ十分には考えておられないかも知れない。現代の都会は巨大な文字で蔽(おお)われている。そして夜の空は火の言葉でまたたき、朝になれば無数の印刷された紙片が通行人や、旅行者や、まだ寝床にいる怠け者の手に渡されるのである。しかも部屋でボタンを一つ押せば世界中の声を聞くことができるし、時には我々の師たちの声が聞けることもある。本ときては、現代ほど多くの本が出版されたことはなく、現代ほど人が多く本を読んだことはない、というよりも、多く飛ばし読みしたことはない!


とりわけ出版物によって種々雑多な情報が奔流のように私たちの許に送り届けられ、そのため私たちの判断や印象は混ざり合い、練り合わせられ、それによって私たちの脳髄は麻痺させ、鈍感にさせられているのです。これはまさに出版に携わる編者にとってもとても耳の痛い話です。小社の刊行物が「良貨を駆逐する悪貨」にならないように、あるいは無意味な情報の垂れ流しの媒体にならないように、気をつけたいと思います。


ちなみに、ヴァレリーのこれらの文明批評は現在、平凡社ライブラリーの『ヴァレリー・セレクション(上下)』で、新訳で読むことができますので、興味のある方は書店でご覧になってください。


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上にご紹介したことは、『恐怖を超えて』に書かれていることの一端をよりよく理解する上で多少参考になるのではないかと思います。つまり、ルイスの教えにある「飼い馴らし」(条件づけ)の実態や、メキシコの知識の流派の中にある、ミトーテと呼ばれる古代からの教えに関連していると思われるからです。編著者によれば、「ミトーテ」はスペイン語に取り入れられた先住民族の言葉の一つです。その言葉はカオスを意味しますが、それは市場でのゴシップやバベルの塔の[混乱した言語の]ような、同意しがたい耳障りな声を表わすのに用いられます。トルテックたちは、ふつうの人間の精神[心]はミトーテだと言っていました。そして調和(ハーモニー)または天国への唯一の道は、ミトーテを終わらせることであると信じ、そのためのやり方を磨いてきたのです。ヴァレリーの洞察は、私たちの精神状態がいかにカオスに陥っているか、ミトーテであるかを現代的文脈でつかむための手がかりを与えてくれると思います。


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実は、現在準備中の『学習する自由◎第3版』(仮題)という、「静かな革命家」カール・ロジャーズとその後継者の一人ジェローム・フライバーグの共著は、ロジャーズの教育論のまとめであり、アメリカにおける教育改革の実践レポートなのです。A5判で600頁もある大作ですが、現代の教育状況を理解し、望ましい教育の方向を模索する上できわめて重要な本だと思います。刊行準備中の他の本ともども、いずれ詳しくお知らせしたいと思います。
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