コラム〜読書雑記〜

第2回


8月23日のシンポジウムのためにたまたま吉福さんの『トランスパーソナル・セラピー』を読んでいたら、アメリカのトランスパーソナル心理学関係者の中には結構“グルジェフィアン”がいるということがわかりました。例えば『グルジェフ・ワーク』(平河出版社)の著者キャサリン・スピースは、グルジェフのアシュラムで生まれ育ち、後にカリフォルニアのITP(トランスパーソナル心理学研究所)の所員として活躍しているそうです。また、チリ出身のクラウディオ・ナランホという有名なトランスパーソナル関係の心理学者も“隠れグルジェフィアン”で、彼はエニアグラムと同じものを「エンネアゴン」と呼び、それを基にした27タイプの人格の類型論を唱えているそうです。


“隠れ”というのは、一般にグルジェフ派の人は隠れキリシタン的で、例えば黙って企業の幹部として働いており、あまり語らないからです。なぜなら、グルジェフは修行のシステムそのものを第四の道ととらえ、現代社会や日常生活の中で修行することにこそ唯一意味があるとしているからです。日常の自分自身の営みを修行にしようという考え方はヴィヴェカーナンダのカルマ・ヨーガとの類縁を感じさせます。で、トランスパーソナル心理学の背後にはグルジェフ的な流れがあると吉福さんは指摘しています。


サンフランシスコ州立大の哲学教授で、『失われたキリスト教 Lost Christianity 』や、東洋からの諸宗教をレポートした『新宗教 New Religions』などの著書で知られ、ケン・ウイルバーの先輩格にあたるジェイコブ・ニードルマン(『私は何も信じない--クリシュナムルティ対談集』コスモス・ライブラリー 中の「ジェイコブ・ニードルマンとの対話」参照)もやはりグルジェフィアンだそうです。ニードルマンには、キリスト教の中に本来あったとされる修行方法をよみがえらせようという意図があるようです。これは、例えば「汝の隣人を愛せよ」という訓戒の重要性を認めても、ではそのようなメンタリティーをいかにして実現すべきかといった問題を解決しなければならないからでしょう。


他に、パラサイコロジー(超心理学)的角度からトランスパーソナル心理学に関わり、“変性意識”の研究で有名なチャールズ・タートがいます。吉福さんによると、彼は非常に優れた心理学者で、トランスパーソナル心理学は彼に負うところ大だそうです。そのタートが書いた『覚醒のメカニズム Waking Up』は本格的なグルジェフ論で、その意図は「本書は、自分自身および他の人々をより理解したいと願うすべての人と、『日常的意識』と呼ばれる狭量で歪んだ夢から目覚めたいと望んでいるすべての人に捧げられている」という冒頭の言葉にうかがうことができます。この本のことに触れましたのは、しばらく以前、前日本トランスパーソナル学会会長でグルジェフに詳しい菅靖彦さんから、この本の翻訳はほぼ終っているのですが、ある事情で出版できなくなったので、コスモス・ライブラリーで引き受けることは可能かという打診があり、話し合いの結果お引き受けすることになったからです。500頁ほどの厚い本になりそうですが、実に面白い本で、今から出版が楽しみです(『覚醒のメカニズム--グルジェフの教えの心理学的解明』として2001年に刊行)。読者は、一口にトランスパーソナル心理学者といっても、実にいろいろの人がいるということがおわかりになると思います。


前回ご紹介しはじめたモーリス・ニコルは、グルジェフの主要な弟子の一人として、トランスパーソナル心理学の源流のひとつに位置づけられるでしょう。ところで、「トランスパーソナル」という言葉ですが、これについてある程度理解を共にしておくことが必要だと思います。“魂”に焦点を当てて新たな角度からトランスパーソナル心理学の可能性を模索した『二つの世界の間で Between Two Worlds 』(高野雅司訳/諸富祥彦解説『魂のプロセス--自己実現と自己超越を結ぶもの』として、1999年に刊行)の著者フレデリック・ヴィーダマンは、次のように述べています。


トランスパーソナリストは、われわれがパーソナリティを持っていること、あるいはパーソナリティが重要であることを否定しない。事実、トランスパーソナル心理学は、安定し、統合したパーソナリティを、トランスパーソナル的探究のための必要な基盤とみなす。トランスパーソナリストは、しかしながら、パーソナリティそれ自体が目的であるとはみなさない。


「パーソン person 」という語の元々の意味は、「音が通り抜ける sounding through 」ことを意味する per sonat から来ている。per sonat は、役者が一種の原始的なメガホンの役を果たす仮面を通して語った、ギリシャ悲劇に由来する。「パーソン」という語は、パーソナリティの仲介的性質を含意している。実存主義者マーティン・ハイデッガーは、「パーソン」は物でもプロセスでもなく、“それを通じて〈絶対者〉が顕現することができる通路(場)である”という有名な格言において、パーソナリティについての同様の理解を持っていた。トランスパーソナル理論は、役者たちが自分の役から降りることができるのと同じくらい確実に、われわれは自分のパーソナリティから降りることができると示唆する。



この指摘によれば、パーソナリティ=人格は、一般に知られている「ペルソナ=仮面」をかぶった存在であるだけでなく、可塑的な存在でもあることがわかります。いずれにせよ、トランスパーソナル心理学の主眼はこの可塑的なパーソナリティの扱い方にあるようです。


一方、モーリス・ニコルによって解説されたものとしてのエソテリック=秘教的人間理解では、パーソナリティは卵になぞらえられます。つまり、偽りのパーソナリティを外側の固い殻に、パーソナリティを白身に、そしてエッセンス=本質を黄身とみなせば、黄身が鳥に発達するためには、黄身は白身に育まれ、そして最後に鳥は殻を突き破らなければならない。そうなって初めて、それは生き物として日の光の中に十分に出現できるというのです。


ここで、“偽りの”パーソナリティは、エゴを膨らませるのに資するすべてのもの=うぬぼれ、プライド、様々な自己幻想、等々から成るとされます。これに対して、パーソナリティ本体は、良き家長としての生活を維持するための適性、能力、技能、職業知識、等々から成るとされます。そしてエッセンス=本質というのは人間の真の部分です。この状態が人間の発達の第一段階です。が、この部分は3〜5歳以後は自力では成長できません。エッセンスのさらなる成長のためには、何かが起こらなければならない。で、エッセンスの回りに形成されるもの、それがパーソナリティであり、これが第二段階です。子供は親や教師や友達から様々なことを学び、真似する。ここで大切なことは、エッセンスの将来の発達のためには、貧弱なパーソナリティではだめだということです。それが豊かであればあるほど、エッセンスの発達のためにはよいのです。これは、トランスパーソナル心理学におけるパーソナリティの扱いと軌を一にしています。


さて、通常の人生の目的のためにはパーソナリティの形成で十分ですが、グルジェフのワークシステムは人間のさらなる発達をめざします。成功した政治家、科学者、肉屋、パン屋等々であること、すなわち「良き家長」として十分にパーソナリティを発達させた時がこの第三段階の出発点なのです。


ニコルによれば、福音書で言われていることの多くは、実は「パーソナリティを犠牲にしてのエッセンスの発達」についてなのです。世間的な名声や評判、豪邸、宝石、グルメといった「豊かさ」にもかかわらず、自分が「空しい」と感じ始めた時、その人は第三の発達段階に近づき、自分の真の部分であるエッセンスが成長でき、聖書の放蕩息子のように空しく感じるかわりに、意味の感情に満たされはじめる、そういう状態に達したのです。


パーソナリティ、特に偽りの部分は、エッセンスの発達のために「受動的」になり、糧とならなければならないのです。が、ほとんどの人間の最大の問題のひとつは、卵の殻に相当する偽りの部分が肥大化し、それゆえエッセンスの発達を妨げているということです。


このエッセンスとパーソナリティの関係のドラマが、福音書の秘教的な解読によって浮かび上がってくる、とニコルは言います。「山上の垂訓」によって示されたものとしての「宗教」とは、キリストによって教えられたものとしての、人間の進化と“新しい人間”への変容についての心理学的観念であり、それは実は「パーソナリティが形成した後のエッセンスの発達」のことなのです。


経験、教育、利害感覚によってパーソナリティが豊かに発達した人間は「パーソナリティが豊かな人間」ですが、しかし彼のエッセンスは貧しいままです。それが発達するためには、パーソナリティが「受動的」にならなければなりません。福音書が重要なのは、親の意見や通常の学問がパーソナリティの形成に資するのに対して、秘教的に理解されたものとしての福音書の教えはエッセンスの成長に資するからです。
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