コラム〜読書雑記〜

第21回 「超正常」への道としての真の教育


(このエッセイは『片隅からの自由--クリシュナムルティに学ぶ』中に、「超正常をめざして--あとがきにかえて」として、加筆訂正して収録されています。)


だいぶ以前、筆者が西荻窪のホビット村でクリシュナムルティのトークのビデオ紹介をしていた頃、参加者のなかにクリシュナムルティの熱心な読者がおられたのですが、ある時その人が「息子にはクリシュナムルティの本は読ませない」とおっしゃったのを覚えています。また、筆者と同じ大学を優等で卒業し、某大銀行に入社したある同級生と卒業後十年ほど後に会った時に『クリシュナムルティの瞑想録』を進呈したところ、ちょっと目を通して、「この本は退職後に読ませてもらう」と言ったのを覚えています。どちらもある意味で正解で、この社会で「ひとかどの人間」になることをめざしている人にとってはクリシュナムルティの言葉は耳障りなだけでなく、自分の生き方に疑いを抱かされかねないという点で危険でさえあるでしょう。特に同級生はさすが優等生だけのことはあって、さっと目を通して危険性を察知し、ただちに読まないという判断を下したのです。


わが子にどんな教育を望むかは親や社会あるいは政府がどんな人間を望むかにかかっているわけですから、そのことについて大人が正直であることが不可欠だと思います。わが子がどこまでも育って、クリシュナムルティやキリストや仏陀やソクラテスのようになることを望む親が多数おり、その結果、本当にそのような人間が多数出現したらどうなるでしょう? 彼らは、社会に適合し、そこそこ満足のいく生活を送っているいわゆる「正常」人にとっては、はなはだ目障りな存在でありえます。「良薬は口に苦し」と言いますが、まさに「超正常」人としての彼らの真実の言葉や指摘は、私たちが「虚偽」の衣をかぶっていればいるほど苦いものに感じられるでしょう。


例えば、ソクラテスの場合。「ここに一匹の馬があるとして、それは素性のよい、大きな馬なのですが、大きいために、かえって普通より鈍いところがあって、目をさましているのには、何かあぶのようなものが必要だ」と感じ、彼はその鈍い馬としてのアテナイというポリスに神によって付着させられたのではないか。ソクラテスの目には、市民のなかでも特にポリスの見張り役として目をさましているべき裁判官たちが眠りこけている。民主的な法の番人であるべき人々が最も非民主的になっている。そこでソクラテスはブンブンとあぶのように彼らに警告を発し続け、その結果、あまりにもうるさいのでとうとう牢屋に閉じ込められ、毒盃をあおぐことになってしまったのです(樫山欽四郎著『悪』より)。


やがてソクラテスやプラトンに見られたような、「進んで時代と対決」しようという姿は影を潜め、「退いて小善に生きるひとびとは、悪を見すごすひとびとになっていく、悪に目を覆うて、善に退いたひとびとは、期せずして自ら悪に味方する結果となっていく。アウレリウスをさかのぼること、約百年前に、すでにネロの暴虐に逆らうことのできないローマの賢者が生まれていたのであった。以上のことは、ひとり、ローマに止まることではない」と樫山先生は指摘しています(ちなみに、先生は「おはなはん」を演じた女優の樫山文枝さんのお父さんです)。


また、孔子は「春、西方に狩りして、麟がとらえられた」と告げ、「ああ、誰のために出てきたのか。誰のために出てきたのか」と言い、袖をかえして顔を拭い、涙が外衣を濡らした。そして「私の道はおしまいだ」と言った(バートン・ワトソン著『司馬遷』筑摩叢書)。中国にはいないはずの一角の小さな鹿である麟がなぜ出てきて、とらえられたのか。麟は有徳の獣とされ、真の王がいれば現われる。いなければ現われない。孔子のいた当時は世の中が混乱し、真の王が存在しなかったから、決して現われるはずのないものだったのです。だから孔子は「誰のために出てきたのか」と問い、「麟が自分と同じように暗黒の時代に生まれ、ただ不幸だけを受けているのを泣いたのである。有徳の獣が、現われるべきでないときに現われたという悲しい光景は、孔子の眼からみると、自分の運命と近づいた死の前兆であった。だから『私の道はおしまいだ』といったのである。」 これは、生まれ合わせた時代のレベルをはるかに抜きん出た超正常者が往々にして生存中は不運に見舞われるということを示す例と言いうるでしょう。


ワトソンによると、司馬遷は孔子の失敗の大きな原因である彼の欠点を明らかにし「他人の欠陥をあばく者は、自分の身を危うくする」と述べていると指摘しています。彼は、魯の政府でしばらくの間高い官職を得た以外、弟子とともに自分たちの理論の実施される機会を求めながら、国から国へとさすらいつつ、失意と困難と危険をくり返し味わわされたのです。彼は「不用」だった(用いられなかった)のです。


孔子はその当時の政治家たちから迫害されただけではない。彼とその弟子たちは、別の階層の人々、隠者からも厳しく批判された。隠者は堕落した時代にあって権力を得ようと企てることの空しさを指摘し、世の中から逃避することを勧めた。そして自己の才能を伸ばす出口を見つけたいという悲しい願望のため、孔子が経歴に疑惑のある軍隊の成上り者に傭われようと考えたときには、弟子たちさえも批判の矢を向けたのである。世の中を救いたいという精魂をつくした願望を抱いただけで、彼はあらゆる方面からの敵意にとりまかれたのである。


また、孔子が「宿なし犬」という綽名をつけられたと司馬遷は述べています。これは、「聖人孔子が一生のあいだ受けつづけた屈辱と無視を、彼が強調したいと思ったことを示している。なぜなら、孔子の一生の外面的世俗的失敗を強調すればするほど、孔子の教えがその死後の時代にかちえた道徳的精神的勝利を、よりはっきりと示すことになるだろうから」だとワトソンは述べています。


イエスもまた、次のように言った時、自分の「アウトサイダー性」をはっきりと意識していたと言いうるでしょう。


世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。


あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。


「しもべは主人にまさりはしない」 と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。(ヨハネ 15.18-20)


ウスペンスキーは、『新しい宇宙像・上』中のイエス論で次のように述べています。


罪を犯すことへの恐れ、慈悲深くないと見られたり、心が広くないと見られたりすることへの恐れから、正当化するに値しないものを正当化することによって、この世に多大な悪が生じている。キリストは感傷的ではなかったし、不快な真理を語ることを決して恐れず、行動することを恐れなかった。両替人たちを境内から追い出したことは、最も注目すべき寓話であり、「この世」に対するキリストの態度、そのためには神殿さえもひっくり返そうとする態度を示している。


それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ 21.12-13)


余談ながら、「不快な真理を語ることを決して恐れなかった」イエスの磔に関して、ウィルバーはある対談中で次のように述べています(『〈ワン・テイスト〉・下』)。


想像してください。仏陀が悟りを開いたまさにその日、彼はその認識のために捕えられ、磔にされたと。そして、彼の信奉者たちも同じ認識をしたと主張したならば、彼らもまた磔にされると。私に関して言えば、これにはがっくりします。


しかし、それこそがナザレのイエスに起こったことなのです。「なぜあなたは私に石を投げるのか?」とある時点で彼は尋ねます。「それは善い行いだろうか?」。そして民衆が答えます。「おまえは人間なのに神と主張するからだ」。個の〈アートマン〉が〈ブラフマン〉と一つであることを実現することが許されないのです。「私と私の父は一つである」--複雑な要素があるものの、この認識によってこの立派な人物は磔にされたのです。


* * *


幸いにもクリシュナムルティは磔にされることなく、九十歳まで生き長らえ、しかもその言葉を歪曲されることもなくビデオやカセットに残すことができ、さらに彼は、数ある覚者のうちでも教育に特別の関心を持ち続けたという点でユニークな存在でした。彼はしばしばグルジェフとの共通性を指摘され、事実「人間の調和的発展」をめざしたという点で軌を一にしています。共に知性、感情、身体(本能)のバランスのとれた成長・発達を重視したという点で、教えはきわめてまっとうなものだと言いうるでしょう。


大きな違いは、グルジェフの場合は、主に人間が人格を発達させた「家長」になってから以降の発達に主眼を置くのに対して、クリシュナムルティはそこまで待たず、年齢にお構いなくある程度の理解力ができしだい、その段階からただちに発達に手を貸し始めるという点にあるのではないかと思います。


例えば、訪れた十六-十八歳の四人の若者たちとの間で交わされた会話の中で、「誰が僕たちに、生について教えてくれるのでしょうか?」という問いに対して次のように答えています(『生と覚醒のコメンタリー・3』)。


誰も君たちに教えることはできないが、しかし君たちが学ぶことはできる。学ぶことと教えられることとの間には、大きな相違がある。学びは一生涯続くが、それに対して教えられることは数時間か数年間で終わる--それから後はずっと、一生涯君たちは教えられたことを反唱していくのである。教えられたことはすぐに死灰と化す。そしてそれから、生き物である生は、無駄な努力の戦場になる。君たちは、生を理解するひまやゆとりもないまま、生の中に放り込まれる。君たちが生について何かを知る前に、君たちはすでにその真只中にいて、結婚し、仕事に縛られ、社会は情け容赦なく君たちのまわりで要求を突きつけてくる。人は、最後の瞬間にではなく、幼い子供の頃から生について学ばねばならない。ほぼ成人してしまったときでは、もうほとんど手後れなのである」。


クリシュナムルティが教育に特別な関心を払ったのはそのためです。彼は、児童の十全な、バランスのとれた発達を促すためには、早い時期からそれを妨げ、児童を条件づける様々な要因に気づかせることが不可欠だとみなしたのです。そこで彼は、あらゆる機会をとらえて若者たちに生の現実を示し続けました。例えば、さきほどの若者たちに対して、次のように語り聞かせています。


君たちは、生とは何か知っているだろうか? それは、君たちが生まれた瞬間から、死ぬ瞬間、そして多分それ以上にまで及んでいる。生は、広大で複雑な、一つの全体である。それは、何もかもが中で同時に起こっている家のようなものである。君たちは愛し、そして憎む。君たちは貪欲で、ねたみ深く、そして同時に君たちはそうであるべきではないと感じている。君たちは野心的である、そして不安や恐怖や冷酷のあとに挫折や成功が続く。そして、遅かれ早かれ、そういったすべてについての空しさの感情が生まれる。


それから戦争の惨事と蛮行、そして恐怖政治による平和がある。戦争を支持するナショナリズム、主権がある。人生行路の果て、あるいはどこかその途中に死がある。神の探求と、その相争う信念や、組織化された宗教間のいさかいがある。仕事を見つけ、それを守るための苦闘がある。結婚、子供、病気、そして社会と国家の支配がある。生はこの全部であり、そしてそれ以上である。で、君たちはこの混乱の中に放り込まれるのだ。一般には、君たちは零落して、みじめで、途方にくれる。そして、たとえ君たちが山の天辺に登ることによって生き残るとしても、君たちはなお混乱の一部である。果てしない苦闘や悲嘆と、時折訪れるわずかな喜び--これが、われわれのいわゆる生である。誰がこのすべてについて教えてくれるだろうか? あるいはむしろ、いかにして君たちはそれについて学んだらよいのだろうか?


引き続く会話の中で、クリシュナムルティは大略次のように述べています。


誰もが有名になることを望み、事業、宗教あるいは国家の名において自分自身のために努力し、そのようにして誰もが互いに敵同士であるような、野心や羨望や利欲心に基づいた社会を築き上げ、そして若者はそのような分裂した社会に順応し、その堕落した枠組みに適合するように「教育」される。


若者たちの能力は、社会のパターン内で生活できるように開発される。なぜなら、両親、教育者、政府はすべて、若者の能率や金銭的安定に関心があるからだ。政府は若者たちが国家を運営する有能な官僚、経済を維持する善良な産業労働者、そして「敵」を殺せる兵士になってくれることを望んでいる。あるいは「善き市民」になることを欲している。と言うことは、体よく野心的で、欲張りで、自分や家族の安泰だけを願いつつ生き長らえていくことを意味している。


もし親がわが子を愛していれば、彼が全面的に自由に育つように願い、単なる社会の歯車よりもはるかに偉大なものになるようにさせるべく努めるはずである。が、一般に親は息子や娘に安定した仕事を見つけさせ、一定の収入を確保させようとするあまり、絵をかくといった子供の気紛れを許さず、ひたすら社会に適合し、世間体を守り、安定することを願う。


教師と親は、政府と社会一般に支持されて、若者が世間のしきたりに従い、野心や羨望を人生の自然なならわしとして受け入れるべく訓練されるように監視する。彼らは新しい生き方には関心がない。戦争の世界、敵意に満ちた競争の世界をもたらしたのは古い世代であり、そして新しい世代もせっせとその例に倣っている。


では、正しく教育されるにはどうしたらいいのか? まず最初に、政府も教師も両親も、若者を正しく教育する気がないという、単純な事実をはっきり見ること。なぜなら、もし彼らがそう心がけていたら、世界は今とはまったく異なっていたであろうし、戦争などなかっただろうから。だから、もし正しく教育されたいと思うなら、若者は自分自身でそれに着手しなければならない。そうすれば、成人した時、自分の子供たちが正しく教育されるように、気をつけるようになるだろうから。


そしてこの対話を次のように締めくくっています。


君たちには、数学や文学等々を教えてくれる教師はいる。しかし、教育というものは、知識の単なる蓄積よりも何かもっとはるかに深く、かつ広いものなのだ。教育とは、行為が自己中心的にならないように精神を陶冶することである。それは、安泰になるために精神が築き上げる壁--そしてそこから恐怖が、そのすべての複雑さとともに生じるのだが--を打破すべく、一生涯学ぶことである。正しく教育されるためには、君たちは怠けていないで一生懸命学ばねばならない。遊戯に上達するようにしなさい。しかし他人を負かそうとせず、楽しく遊ぶようにしなさい。適切な食物を摂り、健康を維持するようにしなさい。精神を機敏にさせ、そしてヒンドゥー教徒、共産主義者、あるいはキリスト教徒としてではなく、一人の人間として、生の諸問題に取り組めるようにしなさい。正しく教育されるためには、君たちは自分自身を理解しなければならない。学ぶことをやめるとき、生は醜悪で、悲しいものになる。優しさと愛なしには、君たちは正しく教育されることはない。


* * *


ところで、卒業したものの就職先が見つからず、ごろごろしている「パラサイト・シングル」予備軍の若者がたまたまグルジェフやクリシュナムルティの本を読んだらどうなるでしょう? 『覚醒のメカニズム』の中でタートは、「発達課題のこなしそこない」に関して、次のように述べています。 


誰も、自分が通常の発達課題をこなしそこなったとは思いたくない。けれども、もしあなたがこなしそこなったら、表向きその苦痛を軽減するための一つのやり方は、新しい見方をすることによって自分のこなしそこないを合理化することである。「私はこなしそこなったりなんかしていない。他の皆が偽って正しいと言っていることが間違いであり、まやかしであることを見抜き、それを超越してしまったのだ!」 たとえば、もし人々と気持良く話し合うことができなければ、それは自分がいくつかの基本的な社交的技能を習得しなかったからではなく、他の人々がまやかしであるか、冷酷であるか、気配りが足りないからである。当然、優秀で繊細な存在たるあなたは、彼らに取り巻かれていると気持良くしていられないのだ! もしあなたが安定した勤めを維持することができなければ、それはあなたが一定の共通技能を欠いているか、あるいはそれらを用いようとしないからではなく、労働者たちを搾取し抑圧する資本主義制度が悪いのである!


この種の防衛的な見方にはしばしば多くの真実が含まれているという事実が、それらをなおいっそう強力にする。むろん、人々は、ある程度までまやかしで、冷酷で、気配りが足りない。むろん、ほとんどどんな制度においても、労働者たちへのなんらかの搾取と抑圧がある。が、通常の人々は、驚くべき程度まで誠実で気配りすることができ、そうかと思うと、仕事をきちんとしようとしないか、またはそうできないが故に失業する可能性がある。けれども、通常の人のほとんどは、人生をうまく過ごすことにほどほどに成功することができる。


さらに「覚醒についての観念の危険性」について次のように述べています。


ここに、覚醒や悟りについての観念の危険性が入り込んで来る。あなたがさまざまな通常の発達課題をこなしそこなった場合、これらの観念が、自分の欠陥に直面し、それらの是正に取り組むのを避けるための魅惑的でもっともらしい合理化を提供する。「私が通常の人々に取り囲まれていると気持良く感じないのは、まさにグルジェフが言ったとおり、彼らが眠っているからだ。だから、私のような繊細な魂の持ち主、求道者、がなぜ彼らと付き合わなければならないのだ?」「私がどの勤めにも長く留まらないのは、愚かな文化適応のまやかしを見抜いているからだ。私は、腰を据えて愚かな労働者の境涯に甘んじるといった、凡庸で堕落した状態を超越しているのだ」。覚醒や悟りについての観念は、せいぜい、あなたがどのみち本当は変えるつもりのない、自分の状況についての心地好い白昼夢をかきたてるだけである。最悪の場合、それらはあなたが持っているなけなしの社交的技能をも手放すことを助長し、自文化へのさらなる不適応に資する一因となる。


あるいは、前回ご紹介したウィルバーの指摘(「仕事で示すべき性質 最も好ましいのは忠義である。最高経営者に対する最近の調査で、彼らの八十六パーセントは自分の部下に望む性質として忠義を重んじている。最も好ましくないのは高潔さである。たった三パーセントしかそれを重んじていない」)やウスペンスキーの「文明と野蛮主義」などを引用して、「高い道徳レベルへの発達をめざしている僕がこのような企業社会に入ることを拒まざるをえないのは当然ではないか」などと主張するかもしれません。


というわけで、教育について考える場合には、現代社会自体が抱えている根本問題を徹底的に理解することが先決だと思います。
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