真の瞑想 ― 自らの内なる光 ―』クリシュナムルティ・トーク・セレクション(2)

J・クリシュナムルティ[著]

定価(本体1,600円+税)

ISBN978-4-434-24080-5 C0011

真の瞑想 ― 自らの内なる光 ―

「瞑想」の真の意味に光を当てる

『境界を超える英知─人間であることの核心─』クリシュナムルティ・トークセレクション(1)に続くシリーズ第二弾。(1)がクリシュナムルティの教えの要約、いわば総論的位置づけにあったのにたいし、本書(2)は瞑想にテーマを絞った各論的トーク集。

一般に理解されているものとしての「瞑想」とはまったく異なる
クリシュナムルティのラディカルな瞑想観を開示する

■ 精神が若々しく、新鮮で、無垢であるためには、正しい瞑想がどうしても必要である。

■ 瞑想は、日常生活と別個ではない。まさに、日々の生を理解するのに、瞑想が必要である。

■ 誰かに話しているとき、自分の歩き方、考え方、考えていることに完全に注意すること、そこに注意を向けることは、瞑想の一つである。

光は誰からも与えられない

完全に自分にとっての光であるためには、人は自由でなければなりません。自らにとっての光です! この光は他の誰からも与えられないし、みなさんも誰かのロウソクに灯をともすことはできません。もし、誰かのロウソクに灯をともすなら、それはただのロウソクで、いつかは消えてしまうでしょう。自らにとっての光であるとはどういうことか、それを見出すための究明そのものが、瞑想の一つです。(本文より)

クリシュナムルティは、いわゆる「瞑想」を全面否定する。いわゆる「瞑想」とは、精神集中を主な手段とするヨーガや坐禅のことだが、クリシュナムルティは、それらにたいし、門前払いと言っていいくらいの厳しい態度を示す。これは読んだとおりで、あえて論を加えるまでもない。

では、クリシュナムルティが説く瞑想とはどのようなものかと言えば、それは、気づきと注意、あるいは、観察の瞑想、ということになる。観察とは、あるがままの事実認識を言い、それには徹底して受動であることが要請され、無選択の気づきが、あるいは、全的な注意深さが、必要不可欠の要素とされる。これは、世間一般の集中瞑想が、特定のイメージを瞑想対象として設定し、それに心を集中させるやり方であるのと、好対照と言うか、まったく相容れないあり方であることがわかる。(「訳者あとがき」より)

【本書の内容】

◎ 新しい意識 ◎ 注意という奇跡 ◎ 善く生きる ◎ 自らの内なる光 ◎ 真理の探求 ◎ 徳の美しさ ◎ すべてのエネルギーの総和 ◎ 永遠にして時間のない聖なるもの ◎ 創造とは何か? ◎ 意志の行動なしに生きる ◎ 既知と未知との調和 ◎ 聖なる生 ◎ 静かな精神から観察する ◎ 悟りは決まった場所ではない ◎ 探し求めの終焉 ◎ 純粋な観察 ◎ 光は誰からも与えられない ◎ 思考が触れ得ない次元

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