コラム〜編集日記〜

第22回


いかがお過ごしでしょうか? 前回は、拙著編訳『片隅からの自由--クリシュナムルティに学ぶ』を12月初旬刊行/配本の予定であること、年内(2004)にできれば刊行する予定の『気功革命・治癒力編』でちょうど60册となり、一区切りつけることができそうだとお知らせしました。それからあっという間に3ヶ月経ってしまいました。


おかげさまで『片隅からの自由』はほぼ予定どおり、昨年12月初めに刊行しました。また『気功革命・治癒力編』は今年1月中旬に刊行し、昨年刊行した『気功革命・癒す力を呼び覚ます』(今月増刷)と合わせて好評発売中です。


小社では現在、『滝行--大自然の中、自分と出会う』(佐藤美知子著)の刊行を準備中です。これは前著『瞑想から荒行』に続くもので、「滝行」についての、新しい角度からの非常に行き届いた入門書です。


ここで申し上げておかなければならないのは、前著『瞑想から荒行へ』(2004年7月刊行)が佐藤美知子先生にとって遺作となってしまったことです。それについて、『滝行』の編集をされた長谷川智氏(湧気行代表)は次のように述べておられます。


本書のなかにも記されているように、地球の自然は急激に荒廃してきている。滝に行き始めたここ二十数年の間にさえ、山は枯れ、滝の水も目に見えて少なくなってきている。それを佐藤先生は始終嘆いておられた。単に報道による知識・情報としてではなく、現実に見て、触れて、飛び込んで一体化して、その恵み、威力、浄化力、すばらしさを感じて欲しい。それだけでなく、人為による自然の荒廃ぶりを実感して欲しいとよく語っておられた。現代社会は自然環境の観点からしても全地球的規模で危機に瀕している湧気行における佐藤美知子のメッセージ「大自然の中で 地球の未来 自分のこれからを共に考える場」としての原点がここにあると思う。


前著『瞑想から荒行へ』は遺作となった。死の三ヶ月前だった。まるで文中「後三ヶ月の命だったら」の項が御自身の死を予測しているようでもあった。


滝行の本ができるのを楽しみにしておられた。本書をみていただけないのはまことに残念である。しかし私たちは編集の最中、読みかえすなかで何度も新たな深さを感じ驚かされた。私達、湧気行の生徒は佐藤先生の志を継ぎ今後も活動してゆく。またその一環として佐藤先生の教えを世に問うていきたい。


生前の唯一の著作が遺作になってしまうとはどなたも予想しておられなかったでしょう。小社としては、その唯一の本の刊行をお手伝いできたことが、急逝された佐藤先生へのせめてもの手向けになってくれればと念じております。


なお、大変励みになることに、『片隅からの自由』は「週間読書人」(3月18日)の「日本図書館協会選定図書」の「哲学」部門の選定図書に指定されました。これは大変光栄ですが、いささか気恥ずかしい感じがしています。というのは、4月末〜5月初めに刊行すべくたずさわってきた『クリシュナムルティとは誰だったのか--その内面のミステリー』の翻訳作業を通じて、勉強不足を痛感させられたからです。これは、アリエル・サナトという、わが国ではまったく無名の著者が30年かけて仕上げた画期的なクリシュナムルティ研究書です。著者のプロフィールをご紹介します。


アリエル・サナトは、1964年以来、クリシュナムルティと永遠の哲学についての講演・著作に従事。一時期にかけてワシントンD.C.にあるアメリカン・ユニヴァーシティの宗教哲学部準教授を任じた。その後、本書への関心が高まった結果、フリーとなり、米国だけでなく、カナダ、ヨーロッパ、インド、オーストラリアなどから招かれて講演・教育活動を展開。インドでは、チェンナイ[マドラス]のThe School of the Wisdomで教えた。


現在はホノルルに在住。哲学博士論文"The Analytical Fallacy"(分析的謬論)を一般向けに書き直している。この論文は、プラトンからデリダ、ウパニシャッド、ナーガルジュナ、老子からラーマナ・マハリシ、鈴木大拙、ケン・ウィルバーまでの哲学の領域において、いかにして、また、なぜクリシュナムルティの業績が根源的で新たな始まりを画しているかを示したものである。


また、内容は次のようなものです。
第1部 源泉
第1章 永遠の哲学
第2章 新たな見地
第3章 突然変異
第2部 受難
第4章 イニシエーション
第5章 プロセスと権威
第6章 実験
第3部 他在
第7章 最愛の方
第8章 エッケ・ホモ[この人を見よ]
第9章 マイトレーヤ


一見したところクリッシュナムルティとあまり関係がなさそうなチャプターもありそうですが、それが大違いなのです。ちょうどこの翻訳作業にとりかかっていた時、春秋社さんから『生と覚醒のコメンタリー』(1)〜(4)の新装版を出すというお話があり、それで第4巻の巻末に次のような「追記」を付けました。少々長いですが、クリシュナムルティについてのこれまでの紹介状況と『クリシュナムルティとは誰だったのか』の位置づけがおわかりいただけるので、


『新装版』刊行にあたっての追記


このたび新装版として刊行されるにあたり、「文献解題」に若干の追加をさせていただくとともに、最近のクリシュナムルティ紹介の動きをお知らせするため、一つだけ拙訳で刊行を予定している注目すべき本について述べさせていただこうと思います。


この第4巻は一九八四年一一月三〇日に初版が、一九九七年に七版が刊行されています。この間、さらに現在までに解題中で「邦訳なし」とした原書で邦訳されているものが数冊ありますので、それをまずお知らせいたします。


Life Ahead(『未来の生』大野純一訳、春秋社、1989.11)
This Matter of Culture (『子供たちとの対話』藤仲孝司訳、平河出版社、1992.6)
The Urgency of Change(『自己の変容』松本恵一訳、めるくまーる社、1992.4)
You are the World(『あなたは世界だ』竹渕智子訳、UNIO、1998.11)
The Network of Thought(『思考のネットワーク』渡辺充訳、JCA出版、1991.4)
The Beginnings of Learning(『学びと英知の始まり』大野純一訳、春秋社、1991.12)


他に、「解題」には入れていないが邦訳のある主なものは以下のとおりです。


Krishnamurti to Himself?His Last Journal(『最後の日記』高橋重敏訳、平河出版社、1992.10)
A Wholly Different Way of Living(『生の全変容』大野純一訳、春秋社、1992.12)
On Nature and Environment(『瞑想と自然』大野純一訳、1993.12)
On Freedom(『自由とは何か』大野純一訳、春秋社、1994.12)
At the Feet of the Master(『(改訂版)大師のみ足のもとに』田中恵美子訳、竜王文庫、1998.9)
The Only Revolution(『クリシュナムルティの瞑想録』大野純一訳、サンマーク出版、1998.9)(文庫本)


また、編訳書としては次のものがあります。


『〔新装版〕私は何も信じない--クリシュナムルティ対談集』(大野純一編訳、コスモス・ライブラリー、2000.8)
『クリシュナムルティの教育・人生論』(大野純一編訳、コスモス・ライブラリー、2000.11)
『白い炎--クリシュナムルティ初期トーク集』(大野純一編訳、コスモス・ライブラリー、2003.4)
『知恵のめざめ--悲しみが花開いて終わるとき』(小早川詔+藤仲孝司訳、UNIO、2003.8)
『自由と反逆--クリシュナムルティ・トーク集』大野龍一編訳、コスモス・ライブラリー、2004.2)


以下は、「解題」には入っていない、クリシュナムルティの伝記を含む関連書です。


The Years of Awakening(『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス著、高橋重敏訳、めるくまーる社、1988.10)
The Years of Fulfilment(『クリシュナムルティ・実践の時代』メアリー・ルティエンス著、高橋重敏訳、めるくまーる社、1988.4)
The Open Door(『クリシュナムルティ・ 開いた扉』メアリー・ルティエンス著、高橋重敏訳、めるくまーる社、1990.3)
Krishnamurti, i'homme et sa pens仔(『クリシュナムルティ--懐疑の炎』ルネ・フェレ著、大野純一訳、めるくまーる社、1989.9)
Bliss of Reality(『気づきの探究--クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ著、大野純一訳、めるくまーる社、1993.5)
The Kitchen Chronicles: 1001 Lunches with J. Krishnamurti(『キッチン日記』マイケル・クローネン著、高橋重敏訳、コスモス・ライブラリー、1999.4)(品切)
Basic Self-Knowledge: An Introduction to Esoteric Psychology(『グルジェフとクリシュナムルティ--エソテリック心理学入門』大野純一訳、コスモス・ライブラリー、1998.3)


その他の本として以下のものがあります。


『生のアート--クリシュナムルティ、ホスピス、シュタイナー人智学、解放の神学』(津田広志編著、れんが書房新社、1994.5)
『クリシュナムルティの世界』(大野純一著編訳、コスモス・ライブラリー、1997.8)
『片隅からの自由--クリシュナムルティの世界』(大野純一著編訳、コスモス・ライブラリー、2004.12)


◇◇◇


以上、現在までのクリシュナムルティの著作および関連書の刊行状況をざっとたどってみました。わが国におけるクリシュナムルティ紹介に先駆的役割を果たした ""Education and the Significance of Life" (1953)の邦訳『道徳教育を超えて』が一九七〇年に、"The First and Last Freedom" (1954) の邦訳『自我の終焉』が一九八〇年に刊行され、やや遅れて"The Only Revolution" (1970)の邦訳『クリシュナムルティの瞑想録』が一九八二年に、"Commentaries on Living" (1956)の邦訳『生と覚醒のコメンタリー』が一九八四年にそれぞれ刊行されています。が、最近にかけて刊行されてきたそれ以外の邦訳書は原書が一九七〇以降のトークが中心で、初期のトークはほとんど紹介されずにきました。


その欠落を補うためのささやかな試みが『白い炎--クリシュナムルティ初期トーク集』(拙訳、コスモス・ライブラリー)と『自由と反逆--クリシュナムルティ・トーク集』(大野龍一訳、コスモス・ライブラリー)です。また、『生と覚醒のコメンタリー』(以下、『コメンタリー』)第1巻および2巻巻末の「解説◎クリシュナムルティ(上)」「同(下)」を補い、初期トークの一部を年代順にたどり、関連資料と合わせて紹介することを企図したのが『クリシュナムルティの世界』(拙著編訳、コスモス・ライブラリー)です。クリシュナムルティの教育・人生観をざっと概観する試みが『クリシュナムルティの教育・人生論』(拙編訳、コスモス・ライブラリー)であり、一九七〇年前後の重要なトークや対談をまとめた"The Awakening of Intelligence" (1973)を中心にクリシュナムルティの教えの一端を紹介し、他の資料と合わせて学びの可能性を模索する試みが『私は何も信じない--クリシュナムルティ対談集』(拙訳、コスモス・ライブラリー)と『片隅からの自由--クリシュナムルティに学ぶ』(拙著編訳、コスモス・ライブラリー)でした。


以上、およびメアリー・ルティエンスの一連の伝記によって、クリシュナムルティの紹介はほぼ終わったかに思われました。訳者としても、インド側からの伝記"J. Krishnamurti" (1986)(故インディラ・ガンディーを補佐したププル・ジャヤカール女史によって書かれた大著)の紹介が残されてはいるものの、後は初期のトーク、特に神智学協会員たちへのトークや彼らとの討論、さらには晩年にかけての仏教徒や著名人たちとの討論集などを少しづつ紹介していけば足りるのではないかと思っていました。


『クリシュナムルティとは誰だったのか』


ところが、一九九九年に "The Inner Life of Krishnamurti: Private Passion and Perennial Wisdom" (Aryel Sanat, Thesophical Publishing House)が刊行されたことにより、事態は一変し、 クリシュナムルティ紹介に新たな地平が開けてきように思われます。著者アリエル・サナトは本書刊行当時ワシントンにあるアメリカン・ユニバーシティの哲学宗教学部準教授でしたが、現在は大学を離れ、ホノルルに拠点を置いて著作講演活動に携わっているようです。


現在訳者が『クリシュナムルティとは誰だったのか』という邦題で刊行を準備中のこの本で著者サナトが試みたことを簡単に言えば、こうなるでしょう。クリシュナムルティを大輪の花にたとえた場合、ルティエンスとジャヤカールの伝記で試みられた、初期の神智学協会指導者たちの指導・影響下での生活の詳しい紹介と、"Krishnammurti's Notebook"(『クリシュナムルティの神秘体験』)(以下、『神秘体験』)を除いて、いわば彼の「花」の部分としてのトークや著作に紹介のポイントが集中されてきた。その一方で、彼の「茎」と「根」にあたる部分、さらには根の周囲の「土」にあたる部分はほとんど触れられずにきた。もちろん、これらの部分を知らなくても、彼のトークや著述は十分に傾聴に値するので、そこまで詮索する必要などないと思う人もおられるでしょう。実際、これまでの彼の読者の一部は一種の「原典主義」に傾き、余計な解説など不要で、彼が言ったり書いたりしたことにだけビデオやカセットや本で接していれば事足りると思っておられる方々もいるように見受けられます。


が、サナトによれば、それではクリシュナムルティの全体像、彼の出現の意義、彼の教えの核心に迫ることはできないのです。たとえば、『コメンタリー』第1および2巻の「解説」で若干触れた「プロセス」についての理解なしには、『神秘体験』の意義を深いところでつかむことはできないというのです。なぜなら、この「プロセス」は一九二二年の神秘体験から三四年にわたって続き、その後も彼を見舞っていたらしいからです。『神秘体験』の原書が発表されたのは一九七七年ですが、その中には彼自身が一九六一年から翌年にかけて体験した「プロセス」の記述が頻繁にあり、そのプロセスの直後に、異様なまでに鮮烈な風景描写や人間のかかえている様々な問題への鋭利な観察結果が続いているのです。例えば、七月十四日の記述。「一日中プロセスが続いた--圧迫感、ストレイン、そして後頭部の苦痛。何度か目を覚まし、その都度叫び声が出た。日中にも思わずうめき声や叫び声が出た。昨夜、あの聖なるフィーリングが部屋を満たし、同室者もそれを感じた。」このプロセスの記述に続いて、「ほとんどすべてのことについて、とりわけ内奥のより微妙な要求や願いについて、自己を欺くのはなんとたやすいことであろう」といった観察が続いています。


サナトは、なぜクリシュナムルティがこうした記録を日記として残したのかと問います。これは彼自身がプロセスという身体現象らしきものについて、後の誰かに探究の余地を残しておきたかったからではないのか? そこでサナトはほぼ三十年かけて、その「謎」に迫ったのです。そのために彼は膨大な資料(クリシュナムルティ自身の著作、彼についての伝記その他の資料、神智学関連、最近の脳に関する研究成果などについての膨大な周辺資料なといった)を精査し、クリシュナムルティという存在の茎と根さらに根のまわりの土の部分まで掘り下げたのです。その結果は? ここはあまり長々とご紹介する場ではありませんので、結論を簡単にお伝えするにとどめさせていただきます。


まず彼は、『コメンタリー』の解説でも触れた「マスター」(わが国の神智学文献では「大師」と 訳されている)たちの実在性を検証します。なぜなら、「プロセス」は彼らと密接にからんでいるからです。ただし、これは神智学協会設立の当初から議論の多い問題で、それを検証することは容易ではありません。が、サナトは、精査の結果、彼らは実在していると結論づけ、そしてプロセスに彼らが関わっていたことは確かだと断定します。さらにこのプロセスは、実は、クリシュナムルティという一個人に起こった特異な現象というだけにとどまらず、人類の意識進化あるいは変容、さらにはそれを促す脳細胞の突然変異に関わっているという意味で、とてつもなく重要な出来事だった、さらにこれは最も深い意味での「イニシエーション」であったというのです。事実、クリシュナムルティは『神秘体験』中で「脳の浄化」の必要性に触れ、またある種の「手術」がおこなわれているようだとも述べています。このことと、『コメンタリー』全編を通じて、あるいは『神秘体験』その他に見られる鮮烈な自然描写、さらには鋭利な人間観察とは密接に関連していると思われます。つまり、そうした描写力は、プロセスによって彼の感受性、気づき、洞察力が異様なまでに高められたことと直結しているのではないかと思われるのです。


そしてクリシュナムルティの存在の最深部には、いわば「深層海流」のように「永遠の哲学」ないしは「永遠の知恵」が流れ続けていたのだとサナトは言い、その流れについてのウィルバーの次のような洞察を引用しています。


永遠の哲学は、世界の最も偉大な霊的教師、哲学者、思想家、そして科学者たちすらもの大多数によって抱かれてきた世界観である。それは「永遠」なるものまたは「普遍的」なるものと呼ばれている。なぜならそれは、地球上の、また、時代を通じた、事実上すべての文化に現われるからである。われわれはそれをインド、メキシコ、中国、日本、メソポタミア、エジプト、チベット、ドイツ、ギリシャ……に見出す。


そしてわれわれがそれを見出すところではどこでも、それは本質的に同様の特徴を持っており、世界中で本質的に一致している。ほとんど何ごとにも同意することができないわれわれ現代人は、これがかなり信じがたいことであることを見出す。が、アラン・ワッツが、利用できる証拠を要約して言ったように、……「かくしてわれわれは、われわれ自身の立場の極端な特異性にほとんど気づかず、そのために、世界的な一つの哲学があるという合意が実は存在してきたという明白な事実を認めることが困難になっていることを見出す。それは、今生きているのであろうと六千年前に生きていたのであろうと、あるいは米国極西部地方のニューメキシコの出であろうと、極東の日本の出であろうと、同じ洞察を伝え、本質的に同じ教義を教える[男女たち]によって保持されてきたのである。」


これは、実のところ、きわめて注目すべきことである。思うに、それは基本的に、これらの真理の普遍的性質、人間の状態および人間と聖なるものとの隣接についての深い真理にあらゆるところで同意してきた、人類全体の普遍的経験の証拠なのである。それが「永遠の哲学 pholosophia perennis」を述べる一つの仕方である。


ちなみに、"perennis"(英語はperennial)には「多年続く、永久の」という一般的な意味の他に、「多年生の、宿根性の」という植物に関わる意味があります。結局、クリシュナムルティはこの宿根性の植物たる「永遠の知恵」の流れの最先端として登場し、現代にふさわしい仕方でそれを提示しなおしたのだ、とサナトは言うのです。しかも、かつては秘密のベールに包まれ、少数の志願者にしか開かれていなかった「イニシエーション」のドアを、誰にでも近づけるような脱同一化の道として開放したのだ、と。そしてその鍵となるのが「日常生活における様々な関係を鏡とした気づき」の養成(実際には容易ではありませんが)であり、それによって狭い自己との脱同一化をはかり、かくしてウィルバーの言う自己・自家族・自集団・自宗教・自国家中心的スタンスから世界中心的・コスモポリタン的スタンス(覚醒/悟り)への飛躍を遂げることへと彼は私たちを促したのです。つまり、クリシュナムルティの目ざした方向はトランスパーソナル心理学の目ざしている方向と類縁関係にあると言いうるでしょう。


ちなみに、ウィルバーは日記『〈ワン・テイスト〉ケン・ウィルバーの日記・上』(コスモス・ライブラリー、2002)の中で、「永遠の哲学」のアンソロジー(『永遠の哲学』中村保男訳、平河出版社、1988)を編んだオルダス・ハックスレーに関連して、次のようにクリシュナムルティに言及しています。


数十年にわたってオルダスの最良の友人の一人だったのがクリシュナムルティ(私はこの賢人から霊的な道を歩み始めた)であったことは驚きではない。この並外れた賢人は、たとえば『既知からの自由(Freedom from the Known)』(邦題:『自我の終焉』)といった本の中で、非二元の無選択の自覚の力が、空間、時間、死、二元性による束縛の苦悩から人を解放することを指摘している。家(そして図書館)が焼け落ちたとき、ハクスレーが最初に取り戻すことを望んだ本は『生と覚醒のコメンタリー』だったという。


クリシュナムルティは、このハックスレーと一九三八年に出会い、以来親交を結んだ(本書三六三〜三六五ページ、および第3巻に付したエッセイ「クリシュナムルティについて」を参照)だけでなく、晩年にかけて理論物理学者デヴィッド・ボームとも親交を結び、その頃から「脳細胞の突然変異」に大きな関心を持つようになったようですが、まさにプロセスを通じて彼が経ていたのがそれだったのだとサナトは指摘しています。彼は概念的思考には何の関心も示さず、彼の関心はもっぱら自己の意識変容という「実践」にあったのです。


なお、最後に、大変興味深いのですが、訳者が関わっている日本トランスパーソナル学会でもこの実践への関心が高まっています。今年五月から実施されるというその運動のまとめ役である鈴木規夫常任理事は、次のように述べています。


これまでに、たくさんの学会員の方から、月々の公開講座だけでなく、トランスパーソナルというものについてさらに理解を深めるために、そのエッセンスを体験的に経験することのできる実践の場所を設けてほしいという希望をいただきました。


トランスパーソナルというものは、本質的に実践思想でありますので、常任理事のあいだでも、そうした実践の場所を求める声をたいせつにしようという意見があがっています。


こうした状況を受けて、この度、トランスパーソナルの実践に継続的に取り組みたいと思われている方を対象に、実践のコミュニティー“インテグラル・トランスフォーマティヴ・プラクティス” (Community of Integral Transformative Practice) (統合的自己変容実践のコミュニティー)を開設することになりました。この集まりでは、トランスパーソナルという観点から Body・Mind・Soul(からだ・こころ・たましい)という人間存在のそれぞれの側面をバランス良く変容させていくための実践を基本的に二週間に一度のペースで共有していきます。


また、トランスパーソナル思想の実践においては、日常において継続して実践をするということが必須のことになりますので、このコミュニティーに参加される方には、個人的に、日々の生活のなかで、こちらで提案する「宿題」(瞑想や運動等)をこなしていただくことをお願いします。 その意味では、この実践のコミュニティーは、自身を全人格的に成長させることに長期的に取り組みたいと思う方を対象にするものであるということができます。 今日もてはやされる瞬間的に意識の成長を提供することを謳うものとは異なるものですので、その点については、どうぞご留意ください。 また、この集まりは、あくまでも、自己成長を目的とする切磋琢磨の場であり、カウンセリングや「癒し」を提供するものではありませんので、ご了承ください。


こうしたこころみの最終的な目的は、個人・個人が自身に最も適した実践とはどのようなものなのかを創造的に構想する能力を培うことです。そして、それを体験していただいたうえで、いずれは、個人・個人が、自らの個性を見きわめたうえで、必要な工夫をしながら、創造的に新しいものを構想していただけることを希望しております。


こうした動きが出てきたこと、またサナトの本が登場したこと、また、伝え聞くところによると、現在の神智学協会会長ラーダ・バーニア女史が、晩年にかけてのクリシュナムルティとの交流を通じて協会の教えをより普遍宗教的な性質のものへと変容させつつあるということと、今回の『コメンタリー』新装版の刊行とは単なる偶然ではなく、そこにある種の「共時性」を訳者としては感じています。


なお、小社では他にも『フォーカシングとともに(3)--フォーカシングと瞑想』(仮題)(ニール・フリードマン著/日笠摩子訳)も準備中です。これで、(1)体験過程との出会い」および(2)「フォーカシングと心理療法」と合わせて完結することになります。


また『自己変容から世界変容へ--プロセスワークによる地域変革の試み』(ギャリー・ライス著/田所真生子訳/諸富祥彦監訳・解説)、『改訂版・フォーカシング入門マニュアル』(アン・ワイザー・コーネル著/大澤美枝子ほか訳)なども準備中です。


今後ともよろしくお願いいたします。
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