コラム〜編集日記〜

第34回


読者の皆様はいかがお過ごしでしょうか? あっという間に今年もそろそろ終りに近づきつつあります。


前回は『風土臨床:沖縄との関わりから見えてきたもの--心理臨床の新しい地平をめざして』(福島大学総合教育センター助教授 青木真理[編著]/隈病院顧問医師 加藤清ほか共著)が11月初めに刊行予定とお知らせしましたが、ほぼ予定どおり9日に刊行いたしました。


これは6人の心理臨床家の皆さんが沖縄を訪れ、そこで出会った「カミンチュウ」(神事=かみごとに関わる人)である玉城安子さんに出会い、彼女から、そして沖縄の人々と風土から学んだことを心理臨床に活かす試みについてのものであり、6人それぞれの視点からの報告をまとめたものです。6人の皆さんは次の通りです。   青木真理 福島大学総合教育研究センター助教授
  山本昌輝 立命館大学文学部教授
  山本陽子 葵橋ファミリークリニックカウンセラー
  橋本朋広 大阪府立大学人間社会学部助教授
  青柳寛之 甲子園大学人文学部専任講師
  加藤 清 隈病院顧問医師


編者の青木真理先生は、執筆者を代表して次のように思いを述べていらっしゃいます。


私たち、心理臨床に携わる6名は、10年余のあいだ、沖縄を訪問し、沖縄の祭祀、暮らしについての調査を行ってきました。私たちの沖縄研究のなかでもっとも大きかったのは、やんばるのあるカミンチュウ(カミゴトに関わる人)の女性に出会えたことでした。この女性の祭祀を見学し、ときにその中に参加し、また、カミンチュウになるまでのプロセス、カミンチュウとして歩む現在のことなどについて、聞きました。そのなかで私たちは、ある土地に生きる人間が、その土地を住まいとするさまざまな存在と調和しながら生きる智慧を学びました。そのことを、私たちの心理臨床という営みのなかに生かしたい、そうすることで沖縄にお返ししたいと思い、本書を編みました。「風土臨床」という言葉は、そうした願いから生まれた言葉です。沖縄に住まいされている方、沖縄の伝統、信仰に関心のある方、心理臨床に携わる方に、とくに読んでいただきたいと思います。


また、「はじめに」の中では次のように述べています。


本書は、……自主シンポジウム「気と風土をめぐる臨床」のシンポジストの手になるものである。……本書の内容は、シンポジウムをもとにしながら、執筆者それぞれがふくらませ、互いに討議するなかで生まれてきたものである。


「風土臨床」という、定義のきわめて曖昧な概念に関して、いわばロールシャッハ・テストの図版に対するごとく、各人の心理臨床の実践に裏打ちされた想像を付与することでできあがったのが各論文である。


本書のタイトルを『風土臨床:沖縄との関わりから見えてきたもの--心理臨床の新しい地平をめざして』としたのは、本書が心理臨床に携わる人々の心に響き、新しい心理臨床のmovement へとつながっていくことを願ってのことである。


小社の「めざすもの」の中に「環境問題だけをとっても、真の解決には、科学技術的な取組みだけではなく、それを内面から支える新たな環境倫理の確立が急務であり、それには、環境・自然と人間との深い一体感、環境を破壊することは自分自身を破壊することにほかならないことを、観念ではなく実感として把握しうる精神性、真の宗教性、さらに言えば〈霊性〉が不可欠である」という一文がありますが、玉城さんは土地の痛みを自分の身体でまさに「身をもって」感じる方でした。しかしカミンチュウに就任したのは、様々な病気を患った後の50才になってからで、それから12年後にお亡くなりになっています。


例えば、ある時、地元にからだの不調を訴える女の子が出た時(B子ちゃんという)のことを、玉城さんは次のように述べています。


ちょうどワカクサがあるから、そのときを選んで、B子ちゃんの拝みをなかに組み入れた。村の拝みとともに、B子ちゃんのマブイグミ(まぶい、すなわち魂を込める)をした。真肌を取り戻すように、と。ワカクサは新生児のための拝みをする機会です。 翌日、私の留守中にB子ちゃんが訪ねてきていて、「すっかり痛みがとれました」と置手紙があった。


この玉城さんの話から、青木先生は次のような学びを得ています。


このからだの不調を訴えるB子ちゃんの穢れ払い、マブイグミの祈りと、共同体の安寧祈願・浄化儀礼を重ねて行ったというところに、私は新鮮な印象を受け、儀礼の本質がわかった気がした。個人の痛みは共同体の痛みの相似形であって、共同体は一個の有機体である。今まで安子さんが、土地の造成などで土地荒れが引き起こされたとき感じきたからだの痛みも、つまりはそういうことなのだろう。そして儀礼・祭りは、個人の幸せ、健康、豊かであることを祈願し、同時にその個人たちが構成する共同体の幸せと豊穣を祈願するものである。個人の幸せと共同体の幸せは相互依存的である。逆に言えば、個人にふりかかる厄災は共同体へのシラセであり、それを解決することが、共同体の安寧につながるともいえるのだろう。また、ここでいう、共同体は、人間のみによって構成されているのではない。……様々な構成要素(山、川、海、人々の生活、生き物、信仰)によって成り立っている。このときの印象が、「風土臨床」を発想することにつながった。


心理臨床家という専門家の視点からの報告ではありますが、その内容は私たち一般の人間に対しても、環境は風土との関わりを見直すうえでの多くの貴重な示唆を含んでいますので、ぜひお読みいただければと思います。


次に、今年最後の新刊として、キャロライン・ブレイジャー[著]/藤田一照[訳]『自己牢獄を超えて--仏教心理学入門』を15日頃刊行いたします。これは、デイビッド・ブレイジャー著『禅セラピー--仏教から心理療法への道』(大澤美枝子+木田満里代訳/恩田彰監修 コスモス・ライブラリー 2004)、『フィーリング・ブッダ--仏教への序章』(藤田一照訳 四季社 2004)に続く、西洋心理学の伝統と仏教の伝統の統合をめざす現代的仏教心理学シリーズ第三弾です。


著者のキャロライン・ブレイジャーさんは、1955年、英国生まれ。独自の仏教心理学に基づくセラピストやカウンセラー養成コースの中心的指導者として夫のデイビッド氏と共にセラピスト兼仏教修行者として活躍中で、数年前ご夫妻で来日したことがあります。


「自己牢獄」というのはいささかおどろおどろしい言葉と思われるかもしれませんが、訳者の藤田さんはこのタイトルの由来に関連して次のように述べています。


「自己」は防衛のための「砦」に他ならない。それが「牢獄」となってわれわれの人生をさまざまに制限している。仏教の基本教義である五蘊や縁起を「自己=牢獄」の生成プロセスとして詳細にとらえなおし、そこから脱していかに世界や他者に向かって開かれた生き方へと転換していくかを示す。理論篇と実践篇からなる、待望の仏教心理学の体系的教科書。


また、上田紀行先生(東京工業大学大学院助教授)が、次のような素晴らしい推薦文を書いてくださいました。


東西を超えた智慧と実践へのインスピレーションに溢れた一冊


仏教は東洋の偉大な「心の科学」である。あらゆる宗教の中で、仏教ほど精緻に心を分析しつくしたものはない。けれどもその本質はこれまで難解な宗教概念に覆われ、あたかも「分からない」「使えない」ことがむしろ深遠であるかのように扱われてきた。しかし西洋の心理学から仏教に光を当てた本書を読むとき、四聖諦、五薀といった、あの抹香臭い仏教語が、私たちの心を照らし、苦悩の原因を探り、具体的な行動へと導くための、明快な道しるべになっていることに驚かされるだろう。心理学を学ぶ人にとっては仏教という至高の智慧へのよき入門書だ。仏教者にとっては、現代の心の闇、世界の具体的問題へと仏教をひらく、「参加する仏教」への大きなきっかけとなるはずだ。そして一般人のあなたは、仏教と心理学を同時に学び、そして生きる力と指針を得るという、希有な体験を得ることだろう。東西を超えた智慧と実践へのインスピレーションに溢れた、現代を生きる一冊だ。


上田先生は『がんばれ仏教!』 (NHK BOOKS 2004)、『豊かな社会の透明な家族』(法蔵館 1998)、『日本型システムの終焉』 (法蔵館 1998)、『癒しの時代をひらく』(法蔵館 1997)、『宗教クライシス』 (岩波書店 1995)、『スリランカの悪魔祓い--イメージと癒しのコスモロジー--』 (徳間書店 1990年)など、多数の本の著者です。特に『生きる意味』(岩波書店 2005)はベストセラーとして、某予備校調査の結果、今年度の大学入試において出題率第1位になり、話題になりました。また日本における仏教の再生に向けて熱いエールを送り(『がんばれ仏教! お寺ルネッサンスの時代』の著作や「ボーズ・ビー・アンビシャス!」の活動など)、さらにユニークな「仏教ルネッサンス塾」の塾長もつとめられ、海外における仏教の動向にも注目されており、今秋来日したダライ・ラマ法王との対談本の企画が進行中とのことです。


訳者の藤田一照さんのプロフィールを紹介しておきます。


1954年、愛媛県生まれ。1982年、東京大学大学院教育学研究科教育心理学専攻博士過程中途退学。同年、曹洞宗紫竹林安泰寺入山。翌年得度。1987年、米国マサチューセッツ州西部のヴァレ-禅堂住持として渡米。近隣の大学や瞑想センターでも禅の指導や講義をおこなう。2005年帰国。


論文に「アメリカ禅堂通信」、「ヴァレー禅堂雑想録」、「わたしの坐禅参究帖」(いずれも『大法輪』誌に連載)、共著に『新こころのシルクロード』(佐賀新聞刊)、訳書にティク・ナット・ハン『禅への鍵』(春秋社刊)、スティーブン・バチェラー『ダルマの実践』、デイビッド・ブレイジャー『フィーリング・ブッダ』(いずれも四季社刊)がある。


クリシュナムルティの愛読者ということで、一度編集者に会いたいと思っておられたとのことで、『禅セラピー』の訳者大澤美枝子先生のご紹介で2年ほど前にお会いし、その場で今回の刊行について即座に取り決めたという経緯があります。


非常にわかりやすい訳文で、行き届いた訳注を随所に付してくれており、仏教書にありがちな抹香臭さは微塵もありませんので、一般の方々にも十分に受け入れてもらえると思います。


例えば、最終章で蓮如が書いた手紙の一節(浄土真宗の葬式や法事などでよく読まれるもの)を著者が紹介し、「この文章は、充実した生を生きるべきこと、人生が与えてくれる機会を活かして悟りを求めるべきこと、という仏教の命令を力強く表現しています。それは言い換えれば、せっかくの機会が与えられている間に充実して生き、そしてリアリティに出会いなさいということです」と述べているのに関連して、藤田さんは蓮如について次のような訳注を付しています。


「浄土真宗中興の祖」と言われる浄土真宗僧侶(1415-1499)。この引用は、数多く書き残された手紙から、八十通が五帖に編纂された『御文章』の中でも有名な「白骨の章」(五帖十六通目)である。七十五歳の時に書かれた。当時、山科本願寺の近くに青木民部という下級武士がいた。十七歳の娘と、身分の高い武家との間に縁談が調ったので、民部は、喜んで先祖伝来の武具を売り払い、嫁入り道具を揃えた。ところが、いよいよ挙式という日に、娘が急病で亡くなってしまう。


火葬の後、白骨を納めて帰った民部は、「これが、待ちに待った娘の嫁入り姿か」と悲嘆にくれ、五十一歳で急逝。度重なる無常に、民部の妻も翌日、三十七歳で愁い死にしてしまった。その二日後、山科本願寺の聖地を財施した海老名五郎左衛門の十七歳になる娘もまた、急病で亡くなった。葬儀の後、山科本願寺へ参詣した五郎左衛門は、蓮如に、無常について教えを乞う。すでに青木家の悲劇を聞いていた蓮如は、願いを聞き入れ、「白骨の御文章」を著したという。「御文」(おふみ)とも言われる。


なお、カール・ロジャーズ+ジェローム・フライバーグ著『学習する自由・第3版』の共訳者村田進先生から次のようなお知らせがありました。


……「学習する自由」献本の謝辞が届いております。「現代の教育にぴったりのテーマの本」「充実した内容のある本なのでエイヤと気合を入れて読みます。差し当たって目次と相談しながら関心のあるところから読んでいきます」「大作なのでゆっくりと襟を正して読みます」「これからも良書で導いてください」などなど好評です。表紙のデザインにひかれて手にとり買われたワークショップの参加者もいました。大部なのでゆっくり読者が広がっていくと確信しています。来週200名の金沢大学教育学部の学生に宣伝をしてきます。2月からボランティアの電話カウンセラーの研修会でこの本をテキストにして5回シリーズのワークショップを行うことになりました。値段も手頃なのですすめると買われます。追って、著者割引の15冊ほどをまた注文しますのでよろしくお願いします。


やはり大作なので、これから徐々に読まれて行くのではないかと思います。教育基本法についての論議が盛んに行われていますが、外側を変えるのではなく、生徒一人ひとりの創造的エネルギーを解放すべく助けるという、内側からの変革が急務であることを熱く訴えた本書を少しでも多くの方々に読んでいただければと思います。


最後に、前回もお知らせしましたが、ロングセラー『やさしいフォーカシング』の著者アン・ワイザー・コーネル著『すべてあるがままに--フォーカシング・ライフを生きる』の刊行を準備中です。アンさんは北海道(札幌)を皮切りに、東京そして名古屋でワークショップを開催するため来日し、最近帰国されました。随行した大澤先生のお話では、どのワークショップも大盛況だったそうです。


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それでは皆様が風邪を引かないように、良い新年をお迎えになるよう祈っております。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
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